kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月19日

【ガザ攻撃】「家屋の瓦礫の下から、数十体の遺体が掘り出されました。生き残った家族は、大切な人たちが生きながらえているのかどうかを確認しようとするにも、停戦を待たなければなりませんでした」――ハテムさんの支援活動日記、1月18日分

2008年12月からのガザ攻撃についてのエントリは
「2008年12月ガザ攻撃」のタグで一覧できます。
記事クリップははてブ@Dec2008_Gazaのタグで。


国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月18日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

18日はまずイスラエルが一方的に戦闘行為停止 (停戦: ceasefire) を宣言し、その後ロケット攻撃がありイスラエル軍の反撃があり、というのがあって、それからハマスも戦闘行為停止を宣言しました(1週間の期限付きで、その間にイスラエル軍がガザ地区から完全に撤退することが条件)。ハテムさんの日記は、イスラエルの停戦宣言後に書かれています。

ガザ:1月18日

停戦が宣言され、砲撃は止まりました。最初はそれが信じられませんでした。朝早くに、重砲火の音がしてそれからF-16の音がしていたし、それにこの3週間、決してガザの空から去らなかった無人偵察機の音も聞こえましたから。

私の自宅の外に、多くの人たちが、親戚や大切な人たちを訪ね、どうやって過ごしていたのかを知り、最新の消息を確認するために外に出ているのが見えました。 今日はたくさんの悲しい話が人々の間をゆきかっています。

動いている車をたくさん見ました。自宅から脱出せざるを得なかった大勢の人々が、自宅がどうなっているかを確認するために急いでいくのを見ました。弔問客を迎えるための多くのテントが設営され、人々がお悔やみをしてゆきます。

今日会った人たちは深い悲しみにあり、くたびれ果てていました。22日間以上も顔を見ることのなかった友人や同僚にも多く会いました。まるで何年も会っていなかったかのように、互いに抱き合いました。


この戦争は、ガザで多くのものを破壊しました。この戦争は、一般家屋やモスク、学校、施設、道路などに、そしてもっと重要なことには人々の心に、暴力的な影響を与えました。

この先一生忘れることがないだろうというものを見ました。ガザの避難所のひとつで、小さな妹を抱いた9歳の女の子に会ったのを思い出します。この子たちは孤児になっていました。

息子を失ってから何日も嘆き続けていたお母さんのことも忘れられません。それから、小さな子供たちに食べさせようと苦労しているお父さんのことも。

どの家族もひどい打撃を受けています。多くの女性たちが夫をなくしました。たくさんの父親たちが妻や子供をなくしました。

「イスラミック・リリーフ」のガザでのプログラムは、親を失った子供たちや夫を失った女性をサポートするよう取り組んでいきます。その人たちが食べ物に困らないよう、配偶者をなくした人が、家族を食べさせていけるお金を稼げるよう、暮らしプロジェクト (livelihoods projects) を進めていきます。

推計で1,300人のパレスチナ人が、ガザ地区攻撃の期間になくなりました。死者の半数が一般市民だったと考えられています。医師たちは私に、(病院にいる)患者の数百人が危篤状態にあり、もちこたえられないかもしれないから、死者数はさらに増えるだろうと言っています。

日中はほとんど、ガザ地区北部、ベイトラヒヤ、ベイトハヌーン、ジャバリヤで、イスラミック・リリーフの支援チームが支援物資を配るのに参加していました。家を失った数百人の人たちにパンを手渡しました。

ウィザル (Wisal) という8歳の女の子に会いました。2週間前に、自宅の天井が崩れてきて家族もろとも下敷きになったのだそうです。この一家は助かりましたが、お隣の方は亡くなったそうです。

12歳のマフムードという子にも会いました。彼もウィザルと同じような境遇でしたが、マフムードは手にひどい怪我をしていました。ウィザルとマフムードは、ひどい話を語る数千人のなかの2人の子供です。

今日、家屋の瓦礫の下から、数十体の遺体が掘り出されました。生き残った家族は、大切な人たちが生きながらえているのかどうかを確認しようとするにも、停戦を待たなければなりませんでした。荒れはてたガザで奇跡というものはあまりにまれなことで、人々が発見するのは遺体ばかりでした。

この22日間、イスラミック・リリーフ・ワールドワイドのガザ支部は、危険に直面しながらも何とか作業を続けてきました。幸いなことに支援ワーカーは誰も負傷していません。しかし彼らが見たものが長期的な影響を持つということは確実です。イスラミック・リリーフ・ワールドワイドは、ガザの絶望的な状況にある人々の苦難を軽減するためにせいいっぱいがんぱっています。

ガザ地区の病院には、緊急に必要な医療機器を届けました。心臓の機械【注:人工心肺のことかも】 、静脈内輸液や救急車などです。また、負傷し家に戻れない人たちのための薬品や食料、毛布も病院に届けました。

今日、主要な病院3箇所に、直流通電の機械【注:たぶん心停止時に使う除細動器のこと】、心拍計、輸液ポンプ、人工呼吸器といった救命医療に必要な医療機器と、手術室で使う医療機器を届けました。損害と破壊のレベルは非常に大きく、イスラミック・リリーフ・ワールドワイドではこの先何年かかけて、ガザの人々が自身の生活を再建するのを支援していくことになります。

今日、ガザの人々――私の同胞たち、私が故郷と呼ぶ場所――の生活を建て直し、それを生き返らせるためにどのくらいのことをしなければならないのか、ということが私にははっきりとわかりました。

ハテムさんのような人が何百人もいて、地道な活動をなさっていることでしょう。双方の武力行使停止宣言が「つかの間の平和」などでなく、長く続くものであることを祈ります。何に祈るということもなく、ただ祈る。具体的な展望なんかはないが、とにかく祈る。そうすることでしか反応ができません。

※この記事は

2009年01月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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