kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月17日

【ガザ攻撃】「武力行使の停止が迫っていると聞いています。でも人殺しは続いています」――ハテムさんの支援活動日記、1月16日分

2008年12月からのガザ攻撃についてのエントリは
「2008年12月ガザ攻撃」のタグで一覧できます。
記事クリップははてブ@Dec2008_Gazaのタグで。


国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月16日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

16日は停戦 (ceasefire) に関する具体的な話が進められていると報道されていました。米国が動いたとのことです。あと数日で国務長官でなくなるコンドリーザ・ライスが、合意文書を手に、リヴニ外相とにこやかに握手を交わしています。もう、他人様にお聞かせできる言葉が浮かんでこないどころか、まともな言葉は浮かんできません。

では、ハテムさんの日記です。

ガザ:1月16日

この1時間で15人が殺され、多くが負傷したと聞きました。7人は、攻撃の被害者数名の葬儀のために集まっていた人たちのいたテントをミサイルが直撃したときに殺されています。

武力行使の停止が迫っていると聞いています。でも人殺しは続いています。

姉(妹)とその家族は、うちから数百メートルのところに住んでいます。姉は昨日、夕暮れの直前に、子供たちをつれてうちにたどり着くことができました。家族の14人が、2部屋にいます。

表通りから離れた最も安全な部屋はどこかと考えました。


電気がないのでろうそくでしのがなければなりませんでした。夜、私はろうそくの炎をひたすら見つめ、なるべくはやく夜が過ぎ去ってくれますようにと念じ、戦車がこの区域にくるかもしれないと心配して過ごしました。ガザに対するこの21日間の攻撃で、戦車は最も近くまで来ています。

私の心は、一晩中、いろいろなことを次々と考えていました。もし戦車がここの通りに入ってきたら、家族をどこに連れていこうか。どこに避難しようか。

ろうそくの炎をじっと見つめていて、そんなことを自問したって何にもならないじゃないかと気付きました。だって私たちが行けるところなどどこにもないのですから。

数百の家族が、砲撃や爆撃から非難できる場所を見つけようと、うちのある区域から逃れていきました。

戦闘機や砲弾やミサイルの音が、21日間も、昼も夜もひっきりなしに耳に飛び込んできます。

11歳の姪は、ガザの多くの子供たちと同じように、気丈にふるまっています。

こんなことが起きているけれど怖くなんかないもんと言います。しかし、戦争の音が聞こえたらどういう気分がすると尋ねると、姪は寒い、あの音を聞くと体が震える、と答えます。

今日は数時間、家を出て、「イスラミック・リリーフ」の救急チームに合流できました。ガザ市内の12箇所の避難施設に避難してきた、くたくたにくたびれきって絶望的な状況にある人々に、食料品1,700箱を届けました。

家を失った人の数は増え続けています。多くの家が破壊され、自宅が破壊されてはいない人も、自宅にいては安全ではないと感じています。

攻撃が行なわれている区域からは、生命の危険を感じた一般市民が、数千人単位で逃げ出しています。 ただし、多くが自宅やほかのシェルターにいるまま出ようにも出られない状態だと報告されています。

また私たちは、 ラファとハンユニスの避難施設にいる人たちにもパンを1,600包と食料品を1,500箱、届けました。

食料品の箱には、8人家族が3週間食べていけるだけの魚や肉、野菜の缶詰が入っています。

食糧援助を届ける作業をしているときに、5人の子のあるお母さんと話をしました。彼女は、ガザへの攻撃が始まってからというもの、1日に1食しか家族に出せないと言っていました。

アマア【注:人名】は憔悴しきった様子でしたが、食料品の箱を受け取って喜んでいました。

「夜になると子供たちがおなかをすかせます。1日に1食では足らないのです。しかも次の日にならないと食べられない」と彼女は言いました。

「この食料をいただけて安心しています。自分の子供たちがおなかをすかせているということがわかっているというのは、とてもつらいものです」


ガザについて絶望的なのは、たとえ砲撃や爆撃が停止されても既にとんでもない状態にまで破壊されているということと、その後の(白々しくも)「復興」と呼ばれる段階で何がどう進むのかということがまったく見えないということです。今回はUNRWAでさえ標的にされています。イスラエルが何を言おうとしているのかはほとんど明示されていないけれども、「武装勢力がUNRWAの敷地から攻撃してきたことは本当だ」とオルメルトが述べているのですから、今後、UNRWAに対するイスラエル(と米国)の態度がこれまでと同じであるとは考えられません。

それでも、攻撃が続けられるよりそれが停止されることのほうが、何億倍もましであり、攻撃停止は絶対に必要なことです。

※この記事は

2009年01月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:51 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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