kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月04日

Bright Talさんの写真

Fight or Flight, by Bright Tal

* a CC photo by Bright Tal on flickr, Uploaded on Dec 30, 2008


上の写真を撮影してflickrにアップしているBright Talさんはイスラエルの人です。私がflickrに登録して最初にcontactに指定して写真がアップされるたびに見に行くようにしたフォトグラファーです。基本的には単に写真としてあまりにすばらしい。下記のとか。

flowers in the dirt, by Bright Tal


falsetto, bu Bright Tal


彼女は壁の「向こう側」を撮影し、簡潔にレポートしたりもしています。さっき何となく彼女のflickrページを見返していて、しまいには泣けてきました。

基本的にはミニマリストで、壁や路面といった被写体のディテールをすばらしく切り取っている彼女のフォトストリームに、1点、いつもの写真とは少し趣の違う作品があります。

Resilience, by Bright Tal

これは2007年1月にアップされた写真です。西岸地区の南ヘブロン丘陵にあるスシャ(Susya)を訪れた時の一枚。「イスラエルは一貫して、パレスチナ人を土地から追い出して土地を手に入れるというポリシーをとっています。スシャのコミュニティはこのシステマティックな虐待の見本です。1980年代に自宅から退去させられたここの人々は、農地を耕し続け、小屋やテントに暮らしてきました。彼らは常に暴力と退去の可能性のなかにあり、毎日イスラエル軍とユダヤ人入植者(多くの場合、軍に守られている)からの嫌がらせを受け、イスラエルが最短距離で行ける道路を封鎖しているので、学校や病院に通うのでも長距離を移動せざるを得ない状態です」といった解説が書かれています。

2007年2月までの彼女の「政治的」な写真は、別アカウントで運営されている下記URLにまとめられています。彼女の写真のミニマリズムの手法で撮影された「分離壁」の写真など。
http://www.flickr.com/photos/bright-political/
タグ:写真 flickr art

※この記事は

2009年01月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 00:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼