kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2009年01月02日

【ガザ攻撃】死者を埋葬する場所にも困っているガザから(英メディア記事翻訳紹介)

この件についてのエントリは
「2008年12月ガザ攻撃」のタグ
一覧できます。


ガザの状況を伝えるガーディアン記事から。(ガザは外部のジャーナリストが入れないとのことですが、この記事はガザの人が伝えたことを、エルサレムのガーディアン記者が記事として形を整えているのだと思います。)

イスラム教では死者はすみやかに埋葬しなければなりません。しかしガザでは、現在使われている郊外の墓地はイスラエル軍の爆撃が激しく近づけない状態で、やむをえず市内の古い墓地(もう満杯になっていて、普段は新たな埋葬は行っていないそうです)で無理やり埋葬場所を見つけている状態だそうです。

Besieged Palestinians battle to find burial spaces
Hazem Balousha in Gaza and Toni O'Loughlin in Jerusalem
Friday 2 January 2009
原文:
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/02/israel-palestinians-cemeteries

昨日、サリム・アブー・サダクと親戚6人は、ガザ市のシェイク・ラドワン墓地を2時間にわたって見て回っていた。いとこの埋葬場所を見つけようとしていたのだ。最終的には、アブー・サダクはおじいさんの墓をあけ、おじいさんの遺体を脇にのけて、その孫にあたるいとこの遺体を埋葬するスペースを作った。

クルアーンの第一章、『はじまり』を読み上げてひとりの人生が終わったことを明示すると、アブー・サダクはひとつのお墓に複数の遺体を埋葬することについての不安を語った。「非常に残念なことです。こんなことはこれまでなかったのですが、スペースがないのです」

墓地の入り口には、間に合わせの標識が出ている。布に書かれ、宗教に関する事柄を管轄する省によって掲示されているものだ。それには「ここに埋葬することは禁止されています」とあり、ガザ東部郊外、ジャバリア近くの新しい墓地に埋葬するよう指示している。そこならまだ未使用の土地がある。

シェイク・ラドワン墓地は閉鎖されてから何年にもなる。人口密度の高いガザで、ほかの2件の墓地も同様である。

しかし、アブ・サダクの家族にはほかに選択肢がない。

イスラエルがガザの東部を激しく爆撃し、新しい墓地はあまりにも危険な場所となり、その結果、遺族たちは古い墓を再利用することを余儀なくされている。イスラム法は通常それを禁止しているにもかかわらず。

不足しているのは埋葬場所だけではない。イスラエルが18か月にわたってガザを封鎖してきたので、コンクリートや建築資材の不足も非常に深刻だ。遺族たちはまともなお墓を作ることができない。昨年、トンネル経由の経済が機能するようになる前は、イスラム教徒の埋葬には必須の埋葬用の白い布もまた不足していて、遺族たちは何でもあるもので死者をくるまなければならなかった。

「うちはまだ運がいいんです。昔のお墓がありますから」と、癌で亡くなったいとこを埋葬しながら、アブー・サディクは言う。

その近くでは、ムハンマド・ハリル (47歳) が19歳の息子の墓のところに立ち、クルアーンを読み、涙を流している。「息子がいなくなってしまった」。ハリルの息子はハマスの武装ウィング、イゼディン・アル=カッサム旅団のメンバーであった。

土曜日に息子を埋葬して以降、ハリルは毎日墓参りをしている。彼はイスラエル南部の町に向けてロケット弾を発射しているときに死亡した。

その墓は、墓地全体のあちこちに不規則に点在している数多くの盛り土のひとつで、頭と足のところにコンクリートのブロックが置かれ、目印になっている。「遺体を埋葬するのは大変でした。この場所の前に2か所で墓を掘ろうとしました。最終的にここを見つけたのですが、遺体を埋葬するまで、場所を探して墓穴を掘るまで4時間かかりました」とハリルは言う。

「これはイスラムに対する戦争です」と彼は言う。「彼らは私たちに私たちの土地を去るよう求めているのです。けれども私たちはそうはしない。私たちはここにいる。これは私たちの権利です」

……(以下略)

※この記事は

2009年01月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 11:25 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/112039124
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼