kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年12月29日

【ガザ空爆】「私たちの目の前で、ひとつの社会が丸ごと崩壊しつつある」――ガザ地区経済封鎖について(英語記事翻訳)

この件についてのエントリは
「2008年12月ガザ攻撃」のタグ
一覧できます。


ニュースサイトを読み込むたびに何か加わっている状態ですが、このエントリでは、ひとつ前のエントリで言及したZmag.orgの記事の日本語化を。

historical_dl-s.pngその前に、ものすごく基本的なことについて。北アイルランドFAQでも【質問1】で取り上げたのだけれど、「ここで話しているそれはどこにあるのか」という地図。(NI FAQのほうで一番閲覧数が多いのがこの質問なので――ま、単に「質問1」だからってのがあるにせよ――、こっちでもそういう基本情報を入れておきます。)

右の図は、「パレスチナの歴史的変遷」を示した地図です。黒く塗られているところが「パレスチナ」と呼ばれるところで、2番の1947年の国連分割案(その前はこの土地は英国の支配下にあり、反英植民地闘争があったりしました――ジューイッシュもアラブも一緒になったものが)から後が、現在の「中東問題」の見取り図です。最後の5番の図に「ガザ地区」の場所を示す書き込みを加えました。なお、ガザ地区の右側に、青虫に食われた葉っぱのような状態で存在しているのが「ヨルダン川西岸地区」で、「虫食い穴」のようなのはイスラエル人の入植地です。このあたりについては、セス・フリードマンもこの9月に書いています。(すごい迫力です。とにかくこの人は熱い。)
Creative Commons logo※この地図についてはエントリ末尾参照。クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示-継承 2.1」で公開。

また、面積、人口などについては「パレスチナ情報センター」さんの「資料集」のページを。
http://palestine-heiwa.org/feature/about_gaza/
人口約130万人に対して面積は363平方キロ(東京都23区の約6割)。縦が約46km、横幅が約6kmから10km。

10kmというと、日本橋から渋谷とか代官山とかの感じです。6キロだと日本橋から六本木くらい。46kmは東京駅から大船駅くらいです。

というところで本題。Zmag.orgの記事。

If Gaza Falls...
もしもガザが陥落したら……
December 26, 2008
By Sara Roy
原文: http://www.zmag.org/znet/viewArticle/20056

イスラエルのガザ包囲は11月5日に始まった。イスラエルがガザ地区内で攻撃を行なった翌日のことだ。この攻撃は、明らかに、最終的にはこの6月に成立したイスラエルとハマスの間の停戦合意の土台を破壊することを目して計画されていた。停戦合意はこの前にも双方が破っていたが、この侵略は規模が違っていた。ハマスはその反応としてイスラエル領内にロケット砲を撃ち込み、以降は暴力事態は沈静化していない。イスラエルの包囲にはふたつの基本的な目的がある。ひとつは、ガザ地区のパレスチナ人が単に人道的な問題であると、政治的アイデンティティを持たず、したがって政治的な主張も持たぬ乞食であると見られるようにすること。もうひとつは、ガザをエジプトに押し付けることである。だからこそイスラエル側はガザとエジプトの間をつなぐ数百ものトンネルを潰そうとはしないのだ。これらのトンネルの周囲では、非公式ながら徐々に安定的になってきている商業活動が形成され始めている。ガザの人々の圧倒的多数が貧困状態にあり、公式の数値で49.1パーセントが失業している。実際に、ガザ地区の人口の多数にとって、安定雇用の見込みは急速に失われつつある。

11月5日、イスラエル政府はガザへ出入りする道をすべて封鎖した。食料、薬品、燃料、水道や衛生設備の部品、肥料、ビニールシート、電話、紙、接着剤、靴、そしてティーカップまでも、もはや充分な両をガザ地区に運び込めないか、あるいは一切搬入できなくなった。(英国に拠点のある支援活動NGOの)Oxfamによると、11月にガザ地区に入ることを許可された食糧の輸送トラックは、わずか137台。つまり、平均して1日に4.6台が入ったことになるが、今年10月には1日平均123台、2005年12月には564台が入っていた。ガザ地区で食料を供給するのに大きな役割を果たしているのは、国連パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA) と世界食糧計画 (WFP) の二者である。UNRWAだけで、ガザ地区の約75万人に食料を供給しており、これを実現するには毎日15台のトラックが必要である。11月5日から30日の間にガザ地区に入れたのはわずか23台だけで、これは全体の必要量の6パーセントほどである。11月30日の週に入ったトラックは12台で、これは必要量の11パーセントである。またUNRWAは11月に3日間、食料を切らしてしまい、その結果としてこの3日間は毎日それぞれ2万人が予定されていた食料配給を受けることができなかった。ガザ地区のUNRWA責任者のJohn Gingによると、食料支援を受けている人のほとんどが全面的に支援に頼っている。12月18日、封鎖を理由にして、UNRWAは緊急プログラムについても通常プログラムについても、すべての食料配給を見合わせることにした。

WFPも同様の問題を抱えている。2月初めまでのガザ地区の人々の必要を満たすために予定していたトラック190台のうち、わずか35台しか送れない(11月30日から12月6日までの機関で、さらに6台が追加で許可されはしたが)。それだけではない。WFPはガザに送られることのない食料の備蓄の費用を払わなければ成らない。11月だけで21万5000ドルかかっている。もし包囲が続けば、WFPは12月分の倉庫代としてさらに15万ドルを支払わなければならなくなる。パレスチナ人を支援するためではなく、イスラエルの商業を利するための出費だ。

ガザ地区のパン屋のほとんど――全47軒のうち30軒――は、パン窯用のガスを使い果たしてしまったため店じまいをしなければならない状況だ。人々は煮炊きするために見つけられる燃料は何でも使っている。国連食糧農業機関 (FAO) が明示しているように、調理用ガスのボンベはブロイラーの鶏を孵化させるための熱を出すために必需品である。ガスの不足、家畜の飼料の不足のため、養鶏業者が数十万羽の鶏を処分せざるを得ない状況だ。FAOによれば、4月までには鶏肉は全然なくなってしまうだろう。ガザの人々の7割が、主要蛋白源として鶏肉に頼っているというのに。

銀行は、イスラエル側がガザ地区への紙幣の搬入を制限していることから、12月4日に閉鎖を余儀なくされた。ある銀行のドアには次のような掲示が出ている。「パレスチナ自治政府金融庁 (the Palestinian Finance Authority) の決定により、当行は2008年12月4日木曜日に閉鎖いたします。現金を入手できないことが原因です。現金が入手可能になり次第、業務を再開いたします」。

世界銀行は、これらの制限が継続されれば、ガザの銀行システムは崩壊するおそれがあると警告している。支援プログラムのための現金はすべて止められ、11月19日にUNRWAは、最も困窮している人々に対する現金支援プログラムを打ち切った。UNRWAはまた。教科書の制作も中止した。紙やインク、接着剤がガザ地区にないからである。これは(冬休みが明けて)新年に学校に戻ってくる学生20万人に影響を及ぼす。12月11日、イスラエルのエフード・バラク国防大臣は、パレスチナのサラーム・ファイアド首相からの要請をうけ、2500万ドルを送ったが、この送金はこの種のものとしては10月以来のものだった。そしてこの金額ではガザ地区の77,000人の公務員の給与1か月分にもならない。

11月13日、ガザで唯一の発電所の操業が停止され、タービンが止められた。工業用のディーゼル燃料が尽きたためである。これでタービン用バッテリー2個が停止することになったが、これらは10日ほど後に燃料を注入されたときに動作しなかった。タービンのために注文されていたおよそ100の部品は、この8ヶ月間、イスラエル領内のアシュドッドの港で留め置かれている。イスラエル当局が税関を通すのを待っているのだ。45日以上税関に留め置かれていたので、現在、イスラエルはこれらの部品の競売を開始している。代金はイスラエルのものとなっている。

11月30日の週に、39万4000リットルの工業用ディーゼル燃料が発電施設向けとして搬入を許可されたが、これはイスラエルが法的に搬入させる義務を負っている1週当たりの最低量の約18パーセントである。この量では、タービン1つが2日間動くのがやっとで、その後発電所はまた操業停止となった。ガザ電力配給会社は、ガザ地区のほとんどが1日につき4時間から12時間、停電した状態になるだろうと述べている。この停電の間、常にどこかで65,000人以上が伝記のない状態にあることになる。

この週の間、このほかにはディーゼル燃料は(緊急用発電機のためであれ自動車のためであれ)一切運び込まれておらず、ガソリン(11月初めから搬入を許可されていない)や調理用ガスも一切入ってきていない。ガザの病院は、エジプトからトンネル経由で密かに運び込まれるディーゼルやガスに頼っているようだ。これらの供給はハマスによって管理され、徴税されているといわれている。それでも、ガザの病院2軒が11月23日から調理用ガスのない状態である。

包囲によって引き起こされる問題をさらに大きくしているのが、西岸地区のパレスチナ自治政府と、ガザ地区のハマス政府 (the Hamas Authority) との間に生じた問題だ。例えば、ハマスの管理下にはないガザの沿岸自治体水道局 (Coastal Municipalities Water Utility: CMWU) は、(西岸地区の)ラマラにあるパレスチナ水道局 (Palestinian Water Authority: PWA) を経由して、世界銀行から資金を受け取って、ガザ地区の下水システムのポンプを動かす燃料を買うことになっている。6月以降、PWAはこれらの資金を渡すことを拒んでいる。おそらく、ちゃんと機能する下水システムはハマスを利すると感じていることが理由だろう。世界銀行が介入しようとしたかどうかは私にはわからないが、一方でそのための予算などないUNRWAが燃料を供給している状態だ。CMWUはまた、イスラエルに対し、塩素200トンの輸入許可を求めているが、11月末までにCMWUが受け取ったのはわずか18トンだ。これは塩素殺菌水道水1週間分にしかならない。12月半ばまでには、ガザ市とガザ地区北部は3日ごとに6時間しか水道を使えなくなっていた。

世界保健機関によると、ガザ地区と西岸地区との間の政治的分断は、ガザ地区での薬品の備蓄にも深刻な影響を及ぼしている。西岸地区の保健省 (MOH) は、ガザ地区で使われる薬品と使い捨ての医療用具の手配と搬入のほとんどについて責任を負っているが。備蓄分は底をつきうつある。11月を通して、西岸地区のMOHは倉庫スペースがないとして搬入を断っていた。しかしMOHは、適切な量をガザ地区に送ってすらいなかったのだ。11月30日の週、薬品と医療消耗品を積んだトラックが1台、ラマラを出てガザに入ったが、これが9月初めに物資の搬送があって以来のことだった。

私たちの目の前で、ひとつの社会が丸ごと崩壊しつつある。しかし国際社会からの反応は非常に薄く、国連の警告があった程度で、それすらも無視された。EUは最近、EUとイスラエルとの関係を強化したいと述べ、イスラエルの指導者らはガザ地区への大規模な侵攻をおおっぴらに語り、また、ガザ地区に対する経済的締め付けを継続している。それも、ラマラのパレスチナ自治政府――多くの策でイスラエルに協力してきた――からの、暗黙のとは言えないような支持があったようである。12月19日、ハマスは公式にイスラエルとの停戦協定を終了させた。イスラエルは停戦協定を更新したいと考えていると述べたが、原因は、イスラエル側が封鎖を緩めなかったことにある。

ガザ地区の人々から食料や薬を奪っておくことが、イスラエルの人々を守る、などということがありうるだろうか。ガザの子供たちの――ガザの人口の半数以上が子供だ――困窮と苦難が、誰かのためになるなどということがありうるだろうか。人として最低限の生活も、国際法も、保護を必要としている。もしもガザが陥落したら、次は西岸地区になるだろう。



筆者のサラ・ロイは、米ハーヴァード大学中東研究センターで教えている。著書に "Failing Peace: Gaza and the Palestinian-Israeli Conflict" がある。
http://www.zmag.org/zspace/sararoy

本稿初出はLRB (London Review of Books) の2009年1月1日号である。




本文中で使用した地図についてのクレジット。

地図著作者:
現代企画室『占領ノート』編集班/遠山なぎ/パレスチナ情報センター

地図出典:
エリック・アザン著、益岡賢訳、『占領ノート 一(いち)ユダヤ人が見たパレスチナの生活』、現代企画室、2008年
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/books/hazan.html
「パレスチナ情報センター」内、「占領ノート:地図」
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示-継承 2.1」で公開。

4773808101占領ノート―一ユダヤ人が見たパレスチナの生活
Eric Hazan 益岡 賢
現代企画室 2008-11

by G-Tools


※『占領ノート』は、ユダヤ系のフランス人である著者アザンが、2006年の5月から6月にヨルダン川西岸地区を訪れたときの記録。この年の1月、パレスチナで行なわれた民主的な選挙で、ハマスが第一党となった。

このことについて、この本には何箇所かの言及がある。そのひとつを引用しておく。

 パレスチナに来る前、ミシェル・ワルシャウスキー【注:エルサレムのオルタナティヴ情報センターを主催しているイスラエル人。1949年生まれ】は私に、「ハマスの地滑り的大勝利」と言うとき、一般に、パレスチナの議会選挙では二種類の投票が行なわれたことが忘れられていると言っていた。一つは全国区名簿に基づく比例投票で、もう一つは地方区選挙(フランスの地方選挙に相当する)である。比例区では、ハマスは過半数をわずかに超えただけだった。ハマスが大勝利を収めたのは地方区だった。パレスチナの人々は、地方区で、ファタハの候補を一人また一人と、拒否した。私が出会った人々のほとんどは、自分は「どちらかといえばファタハ支持」――ときには「強固なファタハ支持」――であるが、今回は、イスラエルに協力したりひどい汚職で悪名を馳せているあの有力ファタハ候補の再選を見たくないためにハマスに投票した、と語った。


セス・フリードマンは28日付のCiFで、今回のイスラエルの攻撃について「イスラエルにはそれしか選択肢がなかった」と書いていました。

それをそのまま受け取ってみるとして、「他に選択肢がなかった」のは2008年のイスラエルだけではない、ということを彼は失念しているのではないかと。2006年のパレスチナの地方区もまた、「他に選択肢がなかった」。ちょうど、トニー・ブレアがものすごい批判を浴びていた2005年に「労働党か保守党か」でしか選べなかった英国の(っていうかブリテン島の。北アイルランドはこの2党は関係ないから)有権者にとって、保守党がいやなら労働党しかなかったように。2002年のフランス大統領選挙の決選投票で、国民戦線のルペンに投票したくなかったらシラクに入れるしかなかったように。

北アイルランドで、「ベルファスト合意(グッドフライデー合意)に反対、Ulster says NO」っつってデモやったりしていたDUPが、IRAの武装解除が進まないとか、ストーモントにIRAのスパイが入り込んで情報収集している疑いが強い(後にその事実はなかったことが判明)とかいった状況で行なわれた北アイルランド議会選挙@2003年で積極的に支持者を増やして第一党になったのとは、少し話が違うんじゃないかと。(あれも、「UUPじゃもうダメだからDUPしかない」という状況ではあったかもしれないけど。)そして、DUPは武装組織との間に公式なつながりはないにせよ、DUPは各種武装活動とのかかわりはあり、今の党首のピーター・ロビンソンはアイルランド共和国に(ポーズとしての)「軍事侵攻」を行なったメンバーのひとり。DUPのほかの有力政治家はロイヤリストのパラミリタリーの集会に出席するなどしているし。

シン・フェインについては言わずもがな、長年「IRAのポリティカル・ウィング」としてふにゃふにゃとわけのわからない演説をしてきた集団。

その両者を「同じテーブルにつかせる」ことについて、ブレアは「最も極端な者を切り離すのではなく、最も極端な者同士に対話/会話させることが重要」と述べて、実際にはいろいろと横槍はあったのだろうけれども、それだけはこだわって実現させたわけで、それは多分「正しい」ことだったのではないかと思います。その「正しい」ことをするために、あるいはどさくさに紛れて、踏みつけられ埋められた幾多の「真実」があるから、単に「正しい」とは言えないのですが。

※この記事は

2008年12月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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