kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年12月22日

ハロッズ爆弾から25年、ロッカビーから20年の12月、そして「ロンドンにとってのテロリズム」の文章@2006年9月

この12月17日はハロッズ爆弾事件から25年(4分の1世紀)だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Harrods_bombing

1983年12月17日、クリスマス直前の買い物客で賑わうロンドンの高級百貨店、ハロッズの横に停められていた車が爆発した。車には25から30ポンド(15キロ弱)の爆発物が詰まれており、タイマーで爆発する仕掛けになっていた(リモコンではなく)。爆発の30分ほど前に「サマリタンズ」(自殺防止ホットライン)に予告電話があったが、具体性に欠けた予告で、爆発時にその車のあたりにいた警官やジャーナリストを含む6人が死亡、90人ほどが負傷した(負傷者のなかには下肢切断といった重傷を負った人ももちろんいる)。爆弾を作って仕掛けたのは、言うまでもないだろうけど、IRA (Provisional IRA) だった。

この事件については、昨年少し書いている。
http://nofrills.seesaa.net/article/73366651.html

今回、そうか25年かと思っていたのだけれど、特に「あれから25年」の報道はない(英国では10進法の「20年」とか「30年」よりも「25年」が節目とされる傾向があったのだけど、最近弱まってきているのかもしれない)。

むしろ今年は、12月21日がロッカビー事件(パンナム103便爆破事件、パンナム航空機爆破事件)から20年ということで、その記事が目立った。有罪が確定して服役中である実行犯(リビア人)が、末期癌におかされていることを理由に仮釈放を求めていること(そして事件のご遺族の一部もそれを支持していること)がこの秋から伝えられているから、よけいにその報道が「多い」ように見えるのかもしれない。

BBCのオーディオ・スライドショー:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/scotland/7788387.stm

Lockerbie bomb anniversary marked
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/scotland/south_of_scotland/7778010.stm

その他関連記事クリップ:
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Scotland/bomb/
(ロッカビー以外のもクリップされています。)

で、NI FAQのほうでの調べもので、IRAと「クリスマス」というものについて調べていたら(→記事クリップ)、こんなのが見つかった。2006年9月、米国の「9-11」から5年となるときのIHT掲載。ハロッズもロッカビーも出てくる文章。

Carry on
William Boyd
Published: SUNDAY, SEPTEMBER 10, 2006
http://www.iht.com/articles/2006/09/10/news/edboyd.php

テロリズムというものは2001年9月11日に始まったものであるかのように感じられることもあるが、1秒も考えてみれば私が成人してからこのかたずっとそれは常にあったと言ってもよいのではないかと思う。私は1967年から70年のナイジェリアの内戦(注:ビアフラ戦争)のときにナイジェリアに住んでいたので、かなり若いときから紛争というものを知っているのだが、テロリズムは10代終わりに初めて知った。学友のひとりが、1970年9月6日のPLOによる複数の航空機乗っ取り事件で人質になったのだ(ただし無傷だった)。1972年のミュンヘン・オリンピックでイスラエルの選手が殺されたときにはたまたまミュンヘンにいた。そして、1970年代半ばに初めてロンドンを訪れたとき、チェルシーのウォルトン・レストランはまだ爆弾事件の傷跡も生々しかった。(このレストランは1975年に爆弾にやられた。2人が死亡した。)

ビアフラ戦争、PLOのハイジャック、ミュンヘンというだけでも既に「うはぁ」なのだが、1975年といえば、12月のthe Balcombe Street Siegeで最終的には逮捕されたIRAのユニットがロンドンなどで何十件もの爆弾を爆発させていた年だ。1974年から75年にかけて、イングランドでは35人がIRAの爆弾で殺されている。(もちろん、数多くの負傷者もいる。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Chronology_of_Provisional_IRA_actions#1970s

1975年終わりのロンドンは、IRAの爆弾と銃撃の容赦のない波状攻撃にさらされていた。私たちはそのことを忘れてしまっている。1980年代初めにロンドンに転居したとき、ロンドンでテロの脅威といえばすべてIRAのものだった。1983年のクリスマスの時期のハロッズ爆弾事件で殺された若いジャーナリストは私の知り合いだった。そして、1988年、パンナム103便が爆破されたロッカビー事件では、妻の同僚が死んだ。テロリズムというものは、私たち自身の存在の外周に触れるところまで来ていた。


そして、IRAが停戦を宣言するたびに安堵し、停戦破棄を宣言する爆弾が炸裂するたびにまたかという気分になり――ということを筆者のボイドは書いている。ロンドンは1970年代からずっとそういう都市だった。その空気の独特の「重さ」みたいなのは、1994年にIRAが停戦する前にロンドンでしばらく過ごしたことのある人は知っているんじゃないかと思う。特にピリピリした様子はなかったのに、「誰も側にいない荷物」ひとつで一気に空気が変わる、という。

さて、しばらく前に、どっかの誰かが(たぶん)何も知らないくせに、2005年7月7日のロンドン同時爆破テロについて「屁のようなテロ」と述べているとかいうのを他所様で教えてもらったのだが、1970年代半ばも80年代も、そして90年代の最終的停戦前の最後の大暴れも現場で知っているウィリアム・ボイドは、2006年9月に、2005年7月7日のことを次のように書いている。

2005年7月7日、爆弾が爆発したとき、私は脚本執筆中の映画について話をするためにBBCでの会議に向かうタクシーの中にいた。「地下鉄が爆破された」と、運転手の携帯電話に息子さんから連絡があったのだ。私たちは、火事ではなかろうか、電気設備がひどいトラブルに見舞われただけではないだろうか、という話をした。BBCに到着して会議を始めようとしたが、部屋の隅のテレビは、音声を消してつけたままにしてあった。そして、ダブルデッカーのバスがめちゃくちゃになっている映像を見て、何かが違うということがはっきりとわかった。

なぜならば、自爆というものがすべてを変えたからだ。IRAの爆弾キャンペーンではほとんどの場合は建物が標的で、予告もあった。IRAのテロリストたちは死にたくはなかったのだ。しかし今日、ロンドンでは、自分の生命を犠牲胃にするテロリストたちにとって、ありとあらゆる場所が標的になりうる。疑念はときに増大し、ときに減退する。常に気を張っていなければならないというのは、消耗するものだ。

むろん、ロンドンはバグダードのような、ダンテが描いたような地獄ではない。人々は、どうせ死ぬときは死ぬんだという態度で、冷静で、慎重に無関心を装っている。それ以外に何ができようか。いずれにせよ、表面的には秩序だっていてもその下にはカオスと不確実さがある、それが私たちの毎日の実際のところじゃないか。けれども、自爆というものが出てきて以来、生活は前よりもっと不安定にカオティックになり、前よりもっと不確かなものとなっている。

「9-11」に関連付けられた文章なので、重点が「アメリカの皆さんはご存じないかもしれませんが」という方に置かれているにせよ、「ロンドンのテロリズム」について端的に伝える文章としてはかなりわかりやすいと思う。

それでも、喉の奥に魚の小骨が刺さったままのような感覚は、正直、ないわけれはないけれど。

2005年07月09日に私が書いたものから:
http://ch00917.kitaguni.tv/e163508.html
えーとまず,日本では「移民急増、ひずみ増大」「英社会 テロリスト潜入容易に」という見出しをつけた「海外からの急激な人口流入に伴う社会のひずみの拡大がテロリストの潜入を許すことにつながったとの見方が出ている」的新聞記事があるそうですが,その健忘症に呆れ返ったので画像2枚。



左側の画像のバスを爆発させたのは「テロリスト」だけど「移民」じゃない。英国国籍を持ってる。わかる? 左は北アイルランドのリパブリカン過激派。(どっかに爆弾を仕掛けに行く途中で誤って自爆してしまった。)具体的にはPIRAね。

PIRAは今も武装解除してないし,それどころか人員補充も訓練もストップしてないというのが,政府が設立した独立調査機関の公式見解。

もういっちょ,RIRA (Real IRA)に至っては,活動中です。……

※画像左側の「リパブリカン過激派」の「爆弾を仕掛けに行く途中で誤って自爆してしまった」事件は、1996年2月です。

「ロンドンでは、『テロ』は移民が起こすもの」という変なバイアス報道は、2005年7月7日の直後の日本では、読売新聞だろうと東京新聞だろうと当たり前のようにあったなあ、なんてことを思い出す。

もちろん、私が2005年7月に上記のように書いたのは、第一には日本の報道における「移民」の過度な強調がトンデモの域に達していると感じられたから、そして、「IRAは予告もしていたマトモなテロリスト、イスラム過激派は予告もせずいきなり自爆するとんでもないテロリスト」といった意味のないランク付け(?)みたいなことが気になっていたからであって、PIRAの「うっかり自爆」と2005年7月7日の「自爆攻撃」を「自爆」として並べるためではない。ないのだけど、ここだけ抜き出すとそういうふうに見えてしまうので念のため注意書き。

IRAの「施設」をターゲットにした「自動車爆弾」という戦術が、「人的被害を出さないよう細心の注意を払ったもの」などでないことは、書くまでもないと思うけど、一応そうとだけ書いてはおこう。



IHTの記事、筆者のウィリアム・ボイドは1952年にガーナで生まれ、上述の通り、1970年のビアフラ戦争のときにナイジェリアにいて、ニース大、グラスゴウ大、オクスフォード大で学び&PhDを取得し、教職などを経て、小説や映画などの脚本を書いている。1998年には「1950年代、アメリカを席巻した抽象表現主義、そこに無名の天才がいた」といったようなウソの伝記を書き、これが真に受けられて大評判となり……ということがあったそうだ。(デイヴィッド・ボウイも参加したらしい。)小説はいくつか日本語にも翻訳されている


※この記事は

2008年12月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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