kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年12月22日

【訃報】ある「元ハンガーストライカー」の死

今年はあんまりたくさん映画を見ていなくて、というか「今年ちゃんと見た映画」のほとんどすべてが北アイルランド関連(2月のNI Film Festivalが大きかった)で、制作された背景についても、単に「映画」としての内容についても、一番すごいと思ったのは『眠れる野獣』(停戦後のベルファストのロイヤリスト武装組織の内情を描いたドラマ)、「映画」という形式での表現の凄みという点では『ハンガー Hunger』(1981年、ロング・ケッシュのハンガーストライキを題材とした……映像詩というかドラマ)が印象に残っている。

その映画、『Hunger』にひょっとしたら「エクストラ」扱いであっても制作者が登場させていたかもしれない人が亡くなった、との由。

ボビー・サンズらの前に、1980年10月にロング・ケッシュでハンストを行なった7人のひとり、ショーン・マッケンナが亡くなった。(今年はこのハンストのリーダーだったブレンダン・ヒューズも亡くなっている。)

12月19日のSlugger O'Toole記事:

The bill for Hunger
http://sluggerotoole.com/index.php/weblog/comments/the-bill-for-hunger/
Sean McKenna, former IRA volunteer, who spent 53 days on Hunger Strike in 1980 and whose deteriorating condition resulted in Brendan Hughes calling an end to that protest has died.


Sluggerのこの記事は……今見ることのできる記事自体は単に「亡くなった」と書いてあるだけと言うに近く、Sluggerの編集長がコメント欄で説明しているけれど、ある「場」において「語る」というか「伝える」ことの難しさというもののあまりの大きさに圧倒されるしかない。(こういう例は北アイルランドには山のようにあるだろうし、NI以外にも山のようにあるだろう。)

Google Newsで検索してみたが、大手メディアでこの訃報を報じているところはなさそうだ。www.nuzhound.comにもないが、こちらさんにThe Irish Newsの報道が紹介されている。

これとは別に、オンラインのメッセージボードにはいくつか投稿がある。

Politics.ieでは、Sluggerを受けて訃報を伝えている。
http://www.politics.ie/chat/39173-sean-mckenna-former-ira-hunger-striker-dies.html
そんなにたくさんはない投稿の多くはシンプルなお悔やみの言葉だが、「子供のころに彼の顔写真のポスターを持ってデモに行った」という思い出を語っている人もいる。ロング・ケッシュに入れられる前、彼はボーダーの南にいて、それでもSASの越境作戦で身柄を拘束され、ディプロック法廷(陪審なしの「テロ容疑者」専用の裁判)で有罪と宣告されたことを端的に書いている人もいる。そして、ショーンのお父さん(42歳という若さで亡くなっている)は、1971年のインターンメントで最初に拘束され、感覚遮断など「5つのテクニック」の実験台とされたひとりである、ということも。

下記のメッセージボードには、「彼は優しくユーモアのある人だったが、最後まで、自分が生き残ったことを責めていた」とか、「お通夜から帰宅したところだ。ご家族によると、彼自身はハンストのことも、10人が死んだ第二次ハンストに至った間の出来事についても、話さなかったそうだ」といった投稿がある。そして、リパブリカン・ムーヴメントがいかに彼のような人を冷遇していたかも(かつての「闘士」たちは、獄中で行動を起こしている間は「英雄」扱いをされていたが、自身が獄中にある間に「流れ」から取り残され、出獄後はほとんど無視、というケースが多い。その上に、1998年の「和平合意」がある)。
http://www.mudcat.org/thread.cfm?threadid=117127&messages=6

CAINを参照すると――CAIN以外でも同じことが書かれているが――、1980年のハンスト(第一次ハンスト)は、10月27日、英政府が「スペシャル・カテゴリー(犯罪者ではなく、政治犯/戦争捕虜としての扱い)」を廃止したことに抗議して開始された。彼らが何を要求したかは、前に書いている……ってこの記事ではここと同じことしか書いてないか。(^^;) いずれにせよ前に書いたのだけど、「囚人服ではなく私服を着用」といったことを要求した (the five demands)。(映画『Hunger』で、あの若いIRA闘士は最初に署長の前で身につけているものをすべて脱ぎ、毛布を渡されているのは、「囚人服を着ない? よろしい、では毛布だ」ということ。)

このハンストは、リーダーがブレンダン・ヒューズ、以下レオ・グリーン、レイモンド・マッカートニー、トム・マクフィーリー、ショーン・マッケンナ、トミー・マキアニー(以上、IRA)、ジョン・ニクソン(INLA)の7人によって行なわれた。12月1日からは、ロング・ケッシュの彼らに加え、アーマーの女性のプリズナー3人が加わった(この3人のひとりが、1988年にジブラルタルで射殺されたマレード・ファレルである)。
http://larkspirit.com/hungerstrikes/1980-strikers.html

1980年12月15日には、ショーン・マッケンナが昏睡状態で生命が極めて危険な状態となり、ベルファストの病院に移された。17日にはアイルランドのカトリック教会の偉い人がハンストの中止を呼びかけ、18日にハンストの続行停止が宣言された。10月にハンスト入りした7人が食を断って53日。

マッケンナはくしくも、28年後のちょうどその日かその翌日に亡くなったことになろう。

The Irish Newsによると、ショーン・マッケンナはニューリーの出身。1980年のハンストで昏睡状態にまで陥ったことの影響は大きく、視力は最後まで、完全に回復することはなかった(ハンストで、視神経がダメになっていた)。ジェリー・アダムズより4つ若い56歳だった。

Tim Pat Coogan, "the IRA" から少し (p. 492)。
There was one very important element in Sands's acceptance of the settlement terms: the condition of one of the hunger strikers, Sean McKenna. He was a particularly tragic product of the troubles. His father was one of those who, after the 1971 internment swoops, received the type of treatment which led to the Dublin Government bringing Britain before the European Commission of Human Rights. The treatment meted out to McKenna senior was some of the worst to have been suffered by anyone and when he died in 1975, at the age of fourty-two, it was generally accepted by his friends, family and neighbours that it was the 'inhuman and degrading treatment' that had brought him to an early grave.

Young McKenna was embittered IRA activist during 1976 and living in the Republic at Edentubber ... when he was kidnapped, it is believed by the SAS, and taken across the border to Bessiborough Barracks, Co. Armagh. There he underwent the customary brutalizing treatment before being placed on the 'Conveyor Belt' that eventually landed him in Long Kesh. By the forty-eighth day of the strike he had gone blind and his mental condition was giving rise to concern amongst his comrades. ...

そして彼は、最初は「死を恐れてはいない」という態度だったが、ハンストが進むにつれてそれを恐れるようになり、しかしながらハンストを中止しようとはしなかった。

Tim Pat Cooganは当時、英国政府と交渉しているアイルランド共和国の人々と近く、当時英国政府は「マッケンナの健康状態が悪化しているからハンストはじきに終わるだろう」と予測し、それによってダブリンから出ていた譲歩すべきとの主張が否定されていた、とのこと。

つまり……「切り札」的に利用されたんですね、「敵」の側によって。そして、ここでハンストが打ち切られたことが遠因となって、1981年のボビー・サンズらのハンストで10人が死んだ。

このことについて語ることなく、56歳で永眠。1994年の停戦、97年の停戦、98年の和平合意……といったことを見ながら。

0312294166The IRA
Tim Pat Coogan
Palgrave Macmillan 2002-01

by G-Tools




1980年のヒューズ、マッケンナらのハンストのあと、クリスマスを挟んで1981年1月、当局はリパブリカンの囚人たちに「囚人服ではない服」を支給した――彼らの要求していた「彼ら自身の服」ではなく。リパブリカンの囚人たちは自分たちの要求が結局聞き入れられなかったこと、むしろ言葉尻をとられていいようにあしらわれたことを知った。

映画『Hunger』で、畳まれた服をベッドに置いたボビー・サンズが、腰に毛布を巻きつけたままその服を着ようともせず、いらだたしげに震え、そして房内をめちゃくちゃにするシーンがある。このシーンが描写しているのはこの「囚人服ではない服」の支給、という場面である。サンズが、他人ではなく自身がその身体を「武器」として「闘争」に出るしかないと決意した瞬間。

http://en.wikipedia.org/wiki/1981_Irish_hunger_strike#First_hunger_strike



シン・フェインの機関紙であるAn Phoblachtのサイトを見てみたが、最新号が12月18日付で(週刊)、このあとはクリスマス休暇に入るから次の号はしばらく出ない。12月18日号では、ジョン・トーマスボビー・ストーリーが獄中体験を含めこれまでのことを回想しているインタビュー記事が出ている。
http://www.anphoblacht.com/

こうやって、「リーダーシップ」との関係を保っている「元囚人」たちもいれば、まったく省みられない「元囚人」たちもいる。そして、ブレンダン・ヒューズのように、現在の「リーダーシップ」を批判した「元囚人」(の大物)もいる。

なお、ブレンダン・ヒューズの葬儀にはジェリー・アダムズも参列している

※この記事は

2008年12月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 18:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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