kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2008年08月15日

オマー爆弾テロ事件から10年、現場にいた人の言葉、家族を奪われた人の言葉

15日、オマーでは10周年のメモリアル・サービス(追悼礼拝)が実施され、午後3時10分(英国時間。日本では23:10)、1分間の黙祷が捧げられます。ライヴ・ストリームはBBC NIのNewslineで提供されています。日本からの接続でも見られます。直リンクはこれ(要WMP)。(→日本時間の23:57に終了しました。)オマーは雨です。気温も低そうです。人々は長袖です。今(23:20)、犠牲者の名前の読み上げに続き、聖書の『伝道の書』から、あの一節 (a time for war, a time for peace) が読み上げられています。『伝道の書』に続いて、Omagh Waterford Peace Choirという合唱団の歌。(→ライヴ・ストリームの様子はエントリ末尾に。)



BBC NIでは当時の放送の音声を再構成し、オーディオ・スライドショーを制作しています。

Audio slideshow: The Omagh bomb
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7556252.stm

レポーターの報道、現場にいた人たちの証言、当時はマージナルな存在だったDUPのピーター・ロビンソン(現在自治政府首相)のものすごく過剰に厳しい糾弾の言葉、シン・フェインのマーティン・マクギネス(同副首相)の非難の言葉、バーティ・アハーン、トニー・ブレアの言葉……。

以下、記事を2件。1998年8月15日に現場にいて負傷した当時21歳の女性(現在はBBCジャーナリスト)と、現場で亡くなった当時21歳の男性の妹さん(当時20歳)の言葉です。

1件目。現場にいて生き残った人の言葉。
Omagh and me - 10 years on
By Judith Cummings
BBC News
Page last updated at 05:55 GMT, Friday, 15 August 2008 06:55 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7559854.stm

【概要】
私は21歳だった。その夏、大学を卒業して、故郷に戻り、将来のことを考えていた。特に何も予定がないので、友人の働いている店を手伝ってほしいという話を引き受けた。店の人が休暇で出かけてしまっている間の臨時の店員の仕事で、その日が私にとっての初日だった。

お客さんがとても少ない日だった。店主が休暇から戻ってきたら何でこの日はこんなに売り上げが少ないんだとがっかりするのでは、と、友人と冗談を交わしていた。ところが午後2時過ぎ、急にお客さんが増え始めた。どんどんお客さんが入ってくる。

なぜ急に「通りのこちら側」が混んできたのだろうとお客さんに聞いてみると、上のほうは爆弾予告があって避難指示が出ているから、という話だった。

恐怖感はなかったし、レジの開け閉めの音の回数が増えて嬉しいという感じだった。

それまでの21年間、私は「北アイルランド紛争 the Troubles」とは関係のないところで生きてきた。確かにテレビでは見ていたけれども、それが身近に迫ってきたことはなかった。

私はプロテスタントだったが、プロテスタントともカトリックとも仲良くしなさいという家で育ってきた。子供のころに一緒に遊んでいた友達には、両親のカトリックの友人の子供たちがいた。プロテスタントの友人というものは、小学校に上がってからできたようなものだ。

その前の3年間、イングランドで大学に通っていて、友人たちとの話では、私は、北アイルランドはもうああいうひどい状況ではなく、私は小さな静かな町の人間で、そこでは特に何も起きていないし、みんな仲良くやっている、と言っていた。

けれどもその8月15日に、私の人生は変わった。

マーケット・ストリートが混雑してくるにつれて、私と友人の店員は交代で外の様子を見に行った。上のコートハウスのほうで何かが起きていないかどうか、確認するためだ。

店の外に出るたびに、そこは500ポンドの爆薬を積んだ自動車から数フィートも離れていないのだ、ということには気づく由もなかった。

次に私が覚えているのは、暗闇と、土ぼこりと、それから叫び声である。

今に至るまで、爆発音は思い出せない。けれども、映画やテレビで爆弾を見ると、頭の中で何かのスイッチが入ってしばらく固まってしまう。

友人も私も大丈夫だった。間口の狭い店のかなり奥の方にいたので、爆弾の威力が直接届かなかったのだ。

店の入り口はめちゃくちゃに破壊されていた。爆発があったときに入り口のあたりに人がいたかどうかは覚えていない。それは覚えていないほうがよいことかもしれない。

店には裏口があったので、そこから店の中にいた人を誘導し、店の裏手の駐車場に出した。全員がショック状態にあったけれども、致命傷を負っていそうな人は誰もいなかった。

ショックをうけるとおかしな行動を取るようになる。私は2度にわたってめちゃくちゃに破壊された店舗の建物の中に戻っている。一度は店の中に置いてあった靴を取りに、もう一度は店の鍵を取りに――鍵をかけるべきドアが吹き飛ばされてしまっているのだから鍵など意味がない、ということに気付いていなかったのだ。

ほどなく、私は車に乗せられて、病院に連れていかれた。【訳注:当日、オマーに買い物に来ていた一般の人たちが、自家用車で怪我人を地域の大病院に運んでいた。】病院で目にした光景は、このあと一生、脳裏に蘇り続けるだろう。

父が私を探して病院にやってきた。私は血まみれであざだらけだったけれども、病院に留まりたくはなかった。父は近所の人に頼んで私を家にかえした。父は病院に留まって、怪我人の搬送を手伝っていた。また、母が私を探してその病院に来るだろうと考えていたのだ。

爆発があったとき、母はDunnes Storesにいた。オマーをよく知っている人にはおわかりだろうが、Dunnes Storesはマーケット・ストリートの目と鼻の先にある。母は爆発直後に外に飛び出して現場の惨状を見、私を探し始めた。

母は私が店員のバイトをしていた店がどうなったかを見たが、店に裏口があってそこから出ることができて、無事でいる、ということはわからなかった。瓦礫の下敷きになっているのではとしばらく探したあと、このあたりにはもういないと諦めて、病院にやってきた。そこで父を見つけ、娘は無事でいるということを知らされたのだ。

私が近所の人の家で、シェリー酒と安定剤をもらい、甘いお茶とタバコをいただいていたときに、母が駆け込んできた。これまで母は私が喫煙しているのを見たことはなかったが、許してくれたことだろう。

マーケット・ストリートで私を探していた母にとって、その数時間がどれほど恐ろしいものだったか、私には想像もつかないことだ。

その夜はひっきりなしに誰かが訪れてきた。友人も親戚も、あんなに近かったのに無事でいるなんて、と信じられない様子だった。

8時ごろ、母がもう一度病院に戻らないとだめよ、と言い出した。身体の左側、肩からお尻にかけてが真っ黒なあざになっていて、顔も切り傷やあざだらけで、内臓が損傷しているのではと心配していたのだ。

病院で見てもらって異常なしということで、家に戻った。テレビのニュースに出てくる光景を、信じがたいという気持ちで眺めた。自分がその中にいたなんていうことがよくわからなかった。

翌日になって初めて、仲のよかった友人が死んだ、と知った。たった2晩前にはその友人と一緒にいて、土曜日の夜は一緒に遊びに行こうと予定していたのに。

それまで、友人の誰かがあの爆発で死んだかもなどということはまったく考えることもなかった。私たちは21歳で、そうそう死んだりしないはずだった。

その後数ヶ月はぼんやりと過ぎていった。

眠ることができなかった。お酒の量も増えすぎていたと思う。

夜になるとフラッシュバックがひどくなり、自分ではどうにもコントロールがきかなかった。自分は比較的軽傷で済んでこうして生きているのに、他の人たちはそうではなかった、ということで罪悪感を抱いた。

警察が話を聞きに来たときに、その車について何も思い出せず、自分自身に怒りを覚えた。何度も、あんなに近くまで行っていたのに。

母は私を医者にやり、医者は私に睡眠薬を処方してくれた。3度目にお薬をもらいにいったときに、医者はとても優しくもうやめときましょう、と言い、カウンセリングを受けたほうがいいですよ、とアドバイスしてくれた。

そのアドバイスに従うまで、6ヶ月近くかかった。セラピーなんてものはアメリカ人しかやらないけれど、確かにそれで楽になった。中立の立場にある人に思いのたけを打ち明け、いろいろなことを話すことは、私の頭のもやもやをかなり取り払ってくれた。

これまでの10年間で、私は前進できたと思う。

今週はきつかった。何しろオマーが「ニュースの話題」として見られている職場で、10周年を前にいろいろと話題になっていたのだから。

この歳月で、多くの涙が流された。しかしそれで私にはわかったのだが――そしてそれが私にとって最も重要なのだが、あの爆弾は私の人生の一部なのだ。

私はそこにいた。そのことが今の私の人生を形作ったことは否定しようのないことだ。それから逃げようとすることにはまったく意味がない。

だから今日の午後、私は追悼式典に出て、生き残ることができなかった人たちのことを思い、自分が生き残ったことを感謝したい。


ジュディス・カミングズさんはBBC NIでときどき記事を書いている

カミングスさんが言葉少なに語られている「死んだ友人」は、あの通りの坂の上の写真店でバイトをしていたそうだ。つまり、「コートハウスにボム」という予告で退避させられ、坂の下、つまり爆弾が置かれていた場所に向かって歩いてきて犠牲となった人たちのひとり。

カミングズさんがそのご友人のお名前を記されていないので私も書かないことにする。オマーの29人の犠牲者に21歳の女性はひとりだけだから、下記ページを見れば被害にあった状況など一通りのことはわかる。
http://www.wesleyjohnston.com/users/ireland/past/omagh/dead.html



2件目。「21歳の男性」の妹さん、つまりエイダン・ギャラガーの妹のキャシーさんの談話。

Omagh bomb victim's sister relives tragedy
Thursday, 14 August 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/lifestyle/omagh-bomb-victims-sister-relives-tragedy-13939482.html

彼女は事件について公に語ることはめったにないが、事件から10年になるこの夏、ベルファスト・テレグラフの取材に応じた、という。記事は、David Young記者にキャシーさんが語った言葉を文章に起こしたものだ。

エイダンさん、キャシーさんのお父さん、マイケル・ギャラガーさんは、政治的な活動やコミュニティ活動などの経験はなかったが、事件後、被害者家族の団体のまとめ役になった――というか、なってしまった。そのことで家族の間にさまざまな軋轢が生じた。

【概要】
神さまは私に、世界の見え方を永遠に変えてしまう眼鏡を手渡されました。あの日まで、世界は安全だという偽の感覚で生きていたのだと思います。今もそうだったらどんなにいいか。心配することなど何もないという私の世界は、20歳のとき、いきなり終わりました。まさか兄を失うことになろうとは思ってもいなかったし、その上に、ある意味で家族まで失うことになろうとは。

あの朝、エイダンは、前の晩帰ってきたままの格好で寝ていました。相当楽しんできたらしい、と思いました。

起こしてやろうと思って、ベッドの足元に立って音を立てて歯を磨いてやりました。でも兄はうるさいなあとむにゃむにゃ言い、そのまま二度寝に突入してしまい、しょうがないのでほっといて、私は街に出かけました。あれが最後になるとは想像もしていませんでした。あの瞬間を何度も頭の中で再現しています。ひとかけらも忘れることのないように。もうあれしか残っていないのですから。

爆弾が炸裂したときは、家の台所にいました。窓ガラスが揺れました。家の窓ガラスが全部割れた、と感じました。

母がパニックになって部屋に駆け込んできて、爆弾だわ、と言いました。私は二階に上がって、寝室の窓から外を見ました。街の上に黒い煙が広がっていきました。

テレビをつけると、ほどなく、ニュース速報が入りました。それから死者が出ていることについても。テレビを消して、窓枠のところに白いろうそくを立てました。父は確認をするために町のレジャーセンターに行っていました。

親戚が揃い始めました。胃がきりきりしていました。自分には何もできない、できるのは祈ることだけという無力感。私は祈りました。バスルームに鍵をかけて閉じこもり、浴槽の脇に膝をついて、お祈りをしました。怒りを覚えながら、舌がもつれるほど早口で。お祈りをやめたらエイダンが死んでしまう、そう自分に言い聞かせていました。すっかり疲れてしまうまでますます強く祈り続けました。神様に、エイダンの部屋を掃除しますとかエイダンの服にアイロンをかけますとか、おなかがすいたといえば何か作ってあげますとかいったつまらない約束をして、お願いですからエイダンを救ってください、と祈りました。でも通じませんでした。

夜が朝になり、家中の椅子という椅子には誰かが座っていて、うちはまるでお通夜の様相でした。息が詰まりそうで、叫ぶか隠れるかしたくなりました。体中を、ありとあらゆる感情がかけめぐっていました。

時計の針がカチカチと時を刻み、玄関のドアが開く音がしました。台所の食卓の、廊下の見える場所に座っていて、何を告げられるのだろうという不安で足が立ちませんでした。あの知らせを聞かされるまでさらに14時間待たされてたって構わない、そんな感じです。

母が玄関のドアの方向に目を据えたまま、廊下に経っていました。父が入ってきて、何も言わず腕を広げ、母を強く抱きしめました。顔は青ざめていて、涙の跡がありました。強く抱き合ったまま、両親は子供のように泣いていました。

自分の親が、あんなに悲しんでいるのを見るのはつらいものです。ずっと抱き合って泣いていました。長い時間が経ったように感じられました。

私は怒りにとらわれました。こんなに長く待たされて、結果がこれですか、と。神に怒りを覚え、兄に怒りを覚え、すべてに怒りを覚えました。頭の中は本当にいろいろなことが駆け巡っていました。エイダンは今どこにいるのだろう、死んだとき誰と一緒にいたのだろう、家族の誰もそばにいないのにたった一人で路上に倒れていたのだろうか、苦しんだのだろうか、即死だったのだろうか。

身長6フィート3インチ(約190センチ)の大男が、簡単にやられてしまうってどういうことよ、とか。

本当にいろいろな疑問で頭が割れそうでした。ただ重ねられているティーカップを見て急に頭に来て、それを床に叩き落しました。それから数日間はぼんやりと過ぎていきました。眠ることも、食べることもできず、服を着替えることもできず、まるでゾンビのように。

時間が止まってしまえばいいのにと思いました。エイダンにはもう明日はないのに、自分にはある、それを受け入れられない。そんなアンフェアなことがあるか、という。

兄が好きだった食べ物を食べると罪悪感を覚え、一緒に見ていたテレビ番組を見ることができなくなり、笑顔を浮かべたりしたら人は私が兄のことを忘れてしまったのだと思いはしないかと不安で笑うことができなくなりました。

父が「オマー・サポート&セルフヘルプ・グループ」(被害者家族の会)の活動を始めたとき、私たち家族は全面的に支援しました。まさか父が会長になるとは思いもしませんでしたが。公然と自分の考えを述べたりする人ではなかったし、慣れるのは簡単ではありませんでした。機械油で汚れた服を着て、顔も手も真っ黒、という人でした。その父のスーツ姿なんて、ちょっと変でした。

爆弾事件から数ヶ月でグループがまとまり、私たちはほかの被害者家族と会い、同じ苦しみを経験したもの同士ならではの絆を築きました。感情をあらわにすることもでき、死んだ家族についていつまでも話し続けることもでき、その人たちのいる場ではリラックスできました。ほどなく、会合がうちのリヴィングで開かれるようになり、キッチンの食卓にも人が集まるようになりました。ティーカップが積み上げられ、夜が更けて午前になるまでいろいろな作業を続けることになりました。私も手伝いました。夜遅くまでかかってレターをタイプしたり、締め切りに追われながらスピーチの原稿を書いたり。生産的なことをしている、という感じで、それは悪い気分ではなかったです。

キャンペーンをしてもエイダンが戻ってくるわけではありません。でもそれをすることで、誰かのお兄さんや息子、お母さんやお姉さんやお父さんが、次の犠牲者となることを止められるかもしれない。ほかの誰にも同じような経験をしてもらいたくない、私たちは心からそう思っているのです。

【訳注:ここでインタビュアーとキャシーさんとの間であったやりとりや社会的コンテクストが明示されていないので、少し意味が取りづらい部分があるのだが、おそらく、「死んだ者が帰ってくるわけではないのに」といった見方があることについて、家族会が活動しても「犯人」は起訴されていないということについて、また/あるいは、10年の節目の追悼式典の「ボイコット」について、話をしている。】

見通しは真っ暗というわけではありません。心からの支援のメッセージを送ってくださる方々もいらっしゃいます。ほんとうにありがたい限りです。そういったものがあるから続けているのです。

10年が経過しましたが、いまだに感情は冷めていません。エイダンについて思わない日はないし、その名前を口にしない日はありません。私は今では結婚していて、夫と息子がいます。夫は義理の兄を知らず、息子はおじのことを知ることはありません。

すべてが平凡なものだと感じられた日々をこれからも懐かしく思うでしょう。けれども、そういうことにはなりはしない。エイダンは私の人生から盗まれた。私は兄を盗んでいった者たちに、そのことを忘れさせはしません。


キャシーさんとエイダンさんの父親で「家族会」の会長であるマイケルさんは、80年代に、弟をIRAに殺されている。年齢的に考えて、キャシーさんはその「殺されたおじさん」をまったく知らないわけではない。



オマーについては、「Real IRAの爆弾は、コミュニティを分断させるどころか、団結させた」という見方があります。事件で犠牲となった人々にはプロテスタントの人もカトリックの人もいて、事件後、オマーという歴史ある小さな街のいくつもの教会での告別式には、宗派の別なく人々が集い、死者を弔った、という事実もあります。

この8月15日のインディペンデントは、事件後に遺体安置所となったLisanellyの軍兵舎が、オペレーション・バナー終結で用済みとなっており、跡地を宗派の別のない学校(インテグレーテッド・スクール)として活用するプランがあることを伝えています。

確かに、「プロテスタントとカトリック」で分断されていたコミュニティに「宗派の別なく」という存在ができることは、「コミュニティの団結」という言葉で語られるべきことでしょう。

でもそれは、「プロテスタントとカトリック」という「分断」を、あまりに自明な前提にしすぎているのではないかという気が、ギャラガーさんたちの活動について少し知ると、してきます。

インディペンデントの記事には次のような記述があります。私にはこれは、かなり遠回しな家族会への批判であるように読めます。「一部の家族が、コミュニティのまとまりを阻害しようとしているのだ」というように。
The organisation the world knows best is the Omagh Support and Self Help Group, which represents some victims' families and which maintains a vocal public campaign. Its speciality is the use of legal action.

Unfortunately, the group has recently become involved in disagreements on exactly how to mark the 10th anniversary of the attack. This means that this year there will be two separate commemoration ceremonies.

But right from the start, immediately after the bomb, there were signs that the town would not let its hurt turn into acrimony.


インディのこの記事は、後半部分で、爆弾で手足を失ったり視力を失ったりした人たちがどれほどがんばっているかを箇条書き的に列挙し、最後に、あの爆弾で最大の被害をこうむった一人の男性――妻と娘と孫娘を殺され、娘のおなかの中にいた双子の孫を失った、現在80代の男性――が、10年目のこの夏に出した詩集を引用して結んでいます。

ギャラガーさんたちの家族会は、もはや、そういった「パーソナルな損失」にどう向かうかということを主要な問題としているのではなく、「事件の真相究明を阻害するもの」を問題としています。

次のエントリではそのことを。



追記:
BBC NIのNewslineで提供されていたメモリアル・サーヴィスのライヴ・ストリームを見ていました。

ストリームのURLを見つけるのに手間取ってしまい、現地時間15:10の黙祷のあと、犠牲者の名前の読み上げのところからしか見ることができていないのですが、メモ。

犠牲者の名前の読み上げに続いて、『伝道の書』の朗読、Omagh Waterford Peace Choirという合唱団の賛美歌(これはエントリ冒頭に書きました)。

次にテリウ・ウェイトのスピーチ。彼は北アイルランドの人ではありませんが、イングランド国教会の特使として、レバノンでの人質事件(イスラム聖戦が英国人ジャーナリストと北アイルランドのライターを人質として拘禁していた事件)を解決しようと奔走し、いろいろあって自身が1987年から91年までレバノンで人質になっていたという経験の持ち主で、スピーチは第二次大戦中のユダヤ人の迫害から大戦後のパレスチナ紛争に言及し、「復讐は何も生まない」とする非常に力強いものでした。

続いて、宗派代表による言葉(たぶん聖書の朗読)。壇上のゲスト(主に政治家、コミュニティのリーダー)も全員起立して唱和。政治家で私が認識できたのは、マーティン・マクギネスと、アイルランドのBrian Cowan首相だけでした。画質が悪いのも一因ですが(ブロックノイズがひどくてほとんどモザイクかかったような状態)、顔はわかるけど名前はわからない人も何人か画面の中にいたような。ピーター・ロビンソンはいなかったと思います。

続いてOmagh Waterford Peace Choirによる賛美歌、"Let there be peace on earth".

もう一度reading。コミュニティの代表3人による朗読です。

続いてNI Centre for Trauma and Transformationの人のスピーチ。子供を失った母親の手記から、とのこと。

私の時計で23:42(日本時間)、カメラが切り替わり、爆発現場のガラスの碑の序幕。バグパイプ・バンドの演奏のなか、Omagh Youth Theatreの女の子4人が籠から何か(花びら?)を撒いて、子供たちがメモリアル・ガーデン(今日からガーデン・オヴ・ライトという名称になる)に徒歩で進んでいきます。中にはまだ10歳になっていない子も。沿道には多くの人たちが出ています。

子供たちがガーデンに到着し、ガーデンがthe Garden of Lightとして正式にオープン。誰か(誰なのかを聞き逃したのですが議会の議長かも)がテープカット、オマー・ファンドの議長がミラーのスイッチを入れて(ミラーはコンピュータ制御で「ひまわり」のように動く)、マーケット・ストリートのクリスタルの碑にかかっていた幕が落とされます。天気がよければ、ここでミラーから反射された光がマーケット・ストリートの碑に集められて、碑のハートが輝くはずだったのだが、あいにくの雨で、反射光はぼんやりとハートを照らすだけです。
http://www.omaghbombmemorial.com/

そして最後の賛美歌、"Be there my vision" をクワイアが歌い、23:52にメモリアル・サービス終了。

BBC NIのストリームでは、レポーターの解説のあと、最後に1998年8月15日の「事件」の映像が流されました。まず、爆発直後のビデオ映像(たまたま現場にいた一般の人が撮影したもの。粉塵のなか、動けない人を毛布に乗せて運ぶ一般の人たちなど)、それから報道のカメラが撮影した現場や軍基地などでの映像、葬儀の映像、チェールズ皇太子の献花の映像、軍のヘリの映像、霊柩車、など。

葬儀の映像は、私は初めて見ました。Real IRAがなぜこんなに多くのイノセントな人たちを殺し、こんな嘆きをこの小さな町にもたらしたのか、私にはわかりません。

23:57にストリーム終了。オマーの遠景写真(スカイライン)がしばらく流れていました。

ところで、トニー・ブレア? 来てるわけないじゃないっすか。(冷笑)

追記:
ベルファスト・テレグラフ、16日付で詳しく報道されています。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/omaghs-message-of-hope-amid-the-silence-13944080.html

※この記事は

2008年08月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼