kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年08月15日

【資料集】1998年8月15日、午後3時10分、オマー

15TH AUGUST 1998
THE OMAGH BOMB

To honour and remember
31 people murdered
and hundreds injured
from three nations,

BY A DISSIDENT
REPUBLICAN TERRORIST
CAR BOMB.

TO HONOUR & REMEMBER
15TH AUGUST 1998


  1998年8月15日
  オマー爆弾事件

  非主流派リパブリカンの
  自動車爆弾テロで
  被害を受けた
  3ヶ国の出身の
  31人の犠牲者と
  数百人の負傷者に
  敬意を表し、忘れないために


※写真は、オマーのメモリアル・ガーデンの中央に立てられていた石碑。FlickrユーザのmissfitzさんのCC写真をクロップ&モノクロ加工。(この石碑が、10周年のメモリアル・モニュメントの設置で、この場所からどかされたらしい。)

映画『オマー』の予告編(2分15秒。本編を見ることができなくても、これだけでも見るべき):
http://uk.youtube.com/watch?v=62stoNJufEU

主演のジェラルド・マクソーリーはオマー出身の俳優さんです。

■資料集:
CAIN:
http://cain.ulst.ac.uk/events/omagh/index.html

Wikipedia:
http://en.wikipedia.org/wiki/Omagh_bombing

BBC:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/northern_ireland/2000/the_omagh_bomb/default.stm

the Omagh Bomb Digital Archive:
http://www.omagharchive.co.uk/

irelandstory.com:
http://www.wesleyjohnston.com/users/ireland/past/omagh/main.html

Omagh Support & Self Help Group:
http://www.omaghbomb.co.uk/
※被害者家族の会。

■時系列で事件後1週間の経緯:
http://www.omagharchive.co.uk/ のWeek Oneより。

【1998年8月15日、土曜日】
14:30ごろ、ベルファストのマスコミ、警察署などに「ボム、オマー、コートハウス」という予告電話。

15:10、オマー、マーケット・ストリートで爆発。

爆発直後、地域の病院(ティローン州立病院)へ負傷者が運び込まれる。警察、負傷者多数と発表、死者数については言及せず。

18:00過ぎ、警察、100人近くがティローン州立病院に搬送されたと発表。ほか、Erne病院も負傷者受け入れ。重傷者は空路ベルファストやデリー(いずれも大都市)に搬送。

夜、女王のメッセージ。「許しがたい犯罪 appalling crime」によるショックを語り、被害者に「心からのお見舞い y heartfelt sympathy」。

22:45、警察がプレスリリース。死者数25で過去のNIでのテロ攻撃で最多。

夜の報道、21人が現場で死亡、数百人が負傷。負傷者のうち11人が危篤。最初の報道では113人が病院に搬送、と。その後報道は世界各国に広がり、新たな記事が出るたびに死傷者数が増える状態に。

ロンドンのウェストミンスター・カテドラル(カトリック)のベイジル・ヒューム枢機卿が「人道に対する罪」の被害にあったすべての人のためにお祈りを、と。

【1998年8月16日、日曜日】
夏休み中だった政治家たちが続々と英国に戻る。トニー・ブレア首相はフランスから急遽帰国し、北アイルランドへ。モー・モーラム北アイルランド担当大臣も休暇先のギリシアから帰国しNIへ。

警察が、一般の人からの安否の確認の問い合わせに答える緊急電話を設置。

アイルランドのバーティ・アハーン首相が声明。事件を「この年月の間で最も邪悪な行為」と述べ、実行者は草の根を分けてでも探し出すと。

32CSM(Real IRAの政治組織)が、自分たちは一切関与していないとの声明。

ブレア首相声明。「許しがたい蛮行 appalling act of savagery and evil」と非難。

プレスコット副首相が午後早くに現場を訪れる。

アイルランド共和国のメアリー・マカリース大統領、オマー入り。

街が奇妙に静まり返る中、オマー・レジャー・センターが死傷者の親族や友人の拠点となり、Lisanellyの陸軍兵舎に臨時の遺体安置所が設けられる。

ベルファストに負傷者を搬送中の救急車が交通事故に巻き込まれ、救急車の運転手が死亡。(爆弾事件の死者には数えられていない。)

駐英スペイン大使がオマー入り。死亡した12歳のフェルナンド・ブラスコ・バセルガの両親がオマーに到着し、フェルナンドの遺体をスペインへ連れて帰る。

親戚や友人の安否を気遣う人たちの電話で回線がパンク。

2日目の夜になっても、死者のうちの2人の身元が不明。

事件現場では、爆発物の型の証拠となる遺留物の捜索に全力。

【8月17日、月曜日】
オマー地域議会で緊急会合。

トラスト・ファンド(緊急募金)が設立され、オマーや周辺のコミュニティの地域の教会に記帳所が設けられる。

アイルランド全域から医療ボランティアが到着。

スペイン副首相がオマー入り。

カトリック教会、ヨハネ・パウロ二世のメッセージ。爆弾事件を「悲劇的で意味がない」とし、死者のために祈り、暴力に屈することなく、和平プロセスへの信を失わぬように、と。

アーマー州で各派宗教指導者(カトリック、メソジスト、プレスビテリアン、アイルランド聖公会)が会合。事件から1週間となる土曜日3:10に全土の教会で追悼集会を行なうことに。

夜遅く、ドニゴールからオマーを訪れていた学童3人の遺体がドニゴールへ。ボーダーまでは北アイルランド警察が送り、そこでアイルランド共和国警察に引継ぎ。霊柩車がボーダーを越えるときにどちらの警察も敬礼。彼らの街では4000人の住民が棺を迎えた。

夜遅く、Real IRAが犯行を認める声明。「一般市民を殺すつもりはなかった。標的は商業施設だった」。

【8月18日、火曜日】
身元確定を終えた警察が28人の死者の名前を公表。3週間後の9月5日にさらに一人が病院で亡くなり、死者数は合計で29に。さらに、亡くなったうちの一人が双子を妊娠していたので、失われた命は31とも。

犠牲者の最初の葬儀がいとなまれ、プロテスタントとカトリックの人々が同じ場所で隣り合って死者を悼む光景がオマー各地で。

スペイン人の学童と引率の先生の葬儀がマドリードで。

事件後静まり返っていたオマーだが、この日は事件現場に献花の列。追悼のヴィジルが行なわれる。

チャールズ皇太子がオマーを訪問、病院で被害者家族と会話し、街頭でも人々と言葉を交わす。その後、自分の庭で育てた花で作った花輪を献花。

ベルファストで15分間、車も人も止まり、ヴィジル(シティ・カウンシルの主催)。犠牲者の名前が読み上げられ、祈りが捧げられる。

ベルファスト・テレグラフのウェブサイトのオンライン記帳所に世界中から4000件のメッセージ。

爆発で負傷したスペイン人の学童8人が、Aldergrove空軍基地から空路帰国。4人はいまだ入院中だった。迎えに来たスペイン人家族らとチャールズ皇太子が言葉を交わした。

【8月19日、水曜日】
ドニゴールも含め、16件の葬儀。大勢の人々の中に、政治家らも参列。

いまだ入院中の負傷者50人のために献血の呼びかけ。

犠牲者家族に対する取材の自粛が要請される。

The Irish NewsにReal IRAの声明(2本目)。「活動を停止する」。「事前警告は適切だった」。「標的は商業施設だった」。

警察が、情報を募るため、爆発した車の写真を公表。写真は爆発現場から回収されたカメラで撮影されていたもの。車種はヴォクソールのキャヴァリエ、色は赤茶。この車は、木曜日にアイルランド共和国で盗まれたものと判明。

この写真は本当に偶然撮影されたもので、爆発のほんの少し前の現場の様子をとらえている。被写体は中央の黄色いセーターの男性とその子供(肩車)なのだけれど、後方に小学生のグループ(爆発で殺されたスペインとドニゴールの小学生のグループだとのこと)が確認できる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Omagh_imminent.jpg

20日にはさらに8件の葬儀がいとなまれ、負傷して入院していた女性が元気な女の子を出産し、地域の新聞が一面で犠牲者の名前と写真の一覧を掲載して事件を振り返った。

※この記事は

2008年08月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 15:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | northern ireland/basic | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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