kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年07月31日

オマー、「1998年8月15日から10年」を前に。

28日、BBC NIで、オマーの「犠牲者追悼のための碑」(というよりパブリック・アートに近い)が立てられた、というニュースがあった。

Memorial garden obelisk installed
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7527906.stm

ガラスを何十にも重ねてハートを彫り込んだ碑が「あの現場」に立てられる様子を撮影した映像が、上記BBC記事に埋め込まれている。この碑には、近くにあるメモリアル・ガーデンに立てられた31本の柱のてっぺんにつけられた鏡の反射光が集められ、ハートが光を受けて輝くことになっている。「Constant Light」と名づけられたこの碑については、これをデザインしたアイルランドの芸術家、Sean Hillenさんのサイトに詳しい説明がある。
http://www.seanhillen.com/Omagh2.html
http://www.omaghbombmemorial.com/ ←上のURLはもうすぐここに移転するそうです。

この「追悼の碑」をめぐっては、BBCの映像レポートでも触れられているが、事件の直接の被害者家族とプロジェクトとの間で少しゴタゴタがあった。最終デザインはコンペで選ばれたもので、その過程には被害者遺族はかかわっていなかった。また、メモリアル・ガーデンに刻まれる「オマー爆弾事件」についての説明の言葉をどうするかについてもさまざまな主張があった。最終的には今年3月、下記の言葉が刻まれることで決着した
"To honour and remember 31 people murdered and hundreds injured from three nations by a dissident republican terrorist car bomb."

「非主流派リパブリカンの自動車爆弾テロによって殺害された、3カ国の31人と、負傷させられた数百人に敬意を表し、忘れないために」

この "dissident republican terrorist car bomb" という言葉に、オマー市議会(シン・フェインが多数)が難色を示したのだそうだ。(たぶん「republicanという言葉をこういうふうに使ってほしくない」ということだろうが。)

もうすぐあの爆弾テロ事件から10年になる。

オマーは北アイルランド、ティロン州の中心都市である。人口は20,000人前後と規模はさほど大きくはないが、アイルランド島で最も古い都市のひとつだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Omagh

1998年8月15日、土曜日。オマーの商店街は、買い物客で賑わっていた。その商店街の一角に駐車されていた赤い乗用車は特に人目を引くものではなかった。

この乗用車は、その数日前に、モナハン(アイルランド共和国)で盗まれたものだった。ナンバープレートは北アイルランドのものに付け替えられていた。乗用車は、そこではなくオマーの裁判所の横の駐車場に停めておくはずだった。しかしその日は駐車場の空きスペースがなかった。乗用車は商店街のど真ん中に停められた。

午後2時半過ぎから、連続して数件、マスコミや「サマリタンズ」(「いのちの電話」のような活動をしている団体)のオフィスに、爆弾予告電話が入った。しかしその電話が告げた「爆弾の場所」は、赤い乗用車が実際に停められていた場所を明確に指し示してはいなかった(「法廷」という電話が1件、「メイン・ストリート」という電話が1件)。これが意図的なものだったのかどうかはわからない。

予告電話があったとの連絡を受けた警察が出動し、人々を退避させた。「爆弾予告」は珍しいことではなく、警察が人々を退避させることも珍しいことではなく、この日もいつものごとく、警戒線が張られて人々が「安全な区域」に誘導されていった。

「いつものごとく」でなかったのは、人々が誘導されていった先にこそ爆弾があったことだった。

午後3時10分、500ポンド(230キロ)の肥料爆弾を積んだ商店の前に停められていた赤い乗用車が爆発した。

オマーは「プロテスタントばかりの街」、あるいは「カトリックだけの街」ではなかった。それに、近くに観光名所(テーマパーク)があり、ドニゴール(アイルランド共和国、アイルランド島北端)などからも人が来るような都市だ。赤い乗用車に詰まれた肥料爆弾は、カトリックもプロテスタントも北アイルランド外の人も含めた29人と胎児2人を殺し――ドニゴールとマドリードの学生交換プログラムでたまたまオマーに立ち寄った小学生4人(アイルランド人2人、スペイン人2人)と引率の先生1人(スペイン人)の5人が死者のなかに含まれている――、200人から300人、もしくはそれ以上を負傷させた。

死者:
http://cain.ulst.ac.uk/events/omagh/dead.htm
http://www.wesleyjohnston.com/users/ireland/past/omagh/dead.html

オマー在住のマイケル・ギャラガーさんは、息子のエイダンさん(当時21歳)をこの爆弾で殺された。エイダンさんは自動車修理の技術を身に付け、父親の修理工場の手伝いをしながら、一本立ちしようとしていた。この土曜日、エイダンさんは工場を休んで友人と一緒に商店街にジーンズを買いに出かけていた。

事件後、マイケル・ギャラガーさんは被害者遺族・家族の団体、Omagh Support & Self Help Groupの中心となり、政府、警察、政党などあらゆる方面に真相究明を求めて働きかけてきた。ギャラガーさんの活動は、事件から10年になる現在もまだ続いていて――つまり事件の「真相」は究明されておらず――、数ヶ月前からは、この爆弾テロ事件を起こした組織、Real IRAを相手取った賠償請求の民事訴訟が行なわれている。同団体のサイトには、彼らの活動が細かく報告されている。この5月にはバスクを訪れているそうだ。

今年2月に東京で開催され、その後神戸と福岡にも巡回した「北アイルランド映画祭」で上映された、2004年のテレビ用映画『オマー』で、マイケル・ギャラガーさんの取り組みが描かれている。ポール・グリーングラス監督は「北アイルランド紛争の始まり」をマークした事件をドキュドラマとして再現した『ブラディ・サンデー』の2年後に、「北アイルランド紛争の終わり」をドラマとして再現した。
http://www.niff.jp/films-omagh.htm

2004年、このテレビ映画が放映されたときの監督インタビュー:
http://www.guardian.co.uk/theobserver/2004/may/09/features.review17
'Omagh and Bloody Sunday are for me two events that bookend the Troubles,' he says. ... 'There were many terrible and meaningful events in between, but Bloody Sunday was the moment at which the tide towards conflict became inevitable. It seemed to sum up several generations of injustice in one afternoon. And so there was a tacit consent in Northern Ireland for violence. And Omagh was the point at which that was reversed, when the tide to settlement became irreversible.'


2004年の映画だから、それ以降の進展についてはもちろん描かれていないのだが、爆弾の爆発までの経緯から(映画は、テロリストの隠れ家に肥料が運び込まれるシーンで始まり、そのあとは「平和な土曜日」のギャラガー家の様子や商店街の様子が描かれる)、爆破具直後の混乱(被害者が次々と運び込まれる病院、家族を探し回る人々)、そして被害者家族・遺族とシン・フェインのジェリー・アダムズの会合(アダムズが例によって「饒舌に、それでいて何も語らない」のだが)、警察の「捜査」の「進展」(北アイルランド警察のトップ、サー・ロニー・フラニガンは何かを明らかにしたくない)、FBIとMI5に雇われてIRA/Real IRA内部から情報を流していた「デイヴィッド・ルパート」の存在と、あの事件の「テロ行為」としての側面だけでない「闇」の部分も、かなり明確に描かれている。

そういったメインのストーリーラインに絡めて、「被害者」たちの間の溝(例えば「プロテスタント」の人たちはシン・フェイン幹部との会合への出席を取りやめる――「奴らと会うことはできない」と)や、その溝をあらかじめ超えたつながり(マイケル・ギャラガーさんの友人にはプロテスタントの人もいるが、やはり「祈り」の場では別々になる)なども丁寧に描きこまれているのが、この映画をいっそう多面的で重厚なものにしている。

ギャラガーさんは決して「ヒーロー」ではなく、いつの間にか遺族・家族団体の中心となってしまうのだが、自宅にひっきりなしに電話がかかってくるので妻や娘たちが神経をすり減らしてしまい、それによって家族の間がきしんでしまったことも描写されている(「あなたがそんなことをしても、あの子は帰ってこないのよ、もうやめて」)。

NI映画祭のページに上がっているスチールの右側のものは、事件直後に、「Real IRA支持者」――グッドフライデー合意に反対しているハードコア・リパブリカン――の集会場の前で、死者たちの顔写真のプラカードを掲げ、「彼らをサポートすることをやめてください」と呼びかける被害者家族たち、というシーンだ。

実際、本当にまったくイノセントな人たちを一度に大量に殺し、傷つけたこの爆弾事件は、「闘争」の「正当性」についての支持よりも疑問を多く引き起こした。

その後のことは現在も進行中である。

ここで「和平プロセスを脱線させようと画策する連中」と位置付けられた集団は、英治安当局などによって「非主流派リパブリカン dissident Republicans」と呼ばれるようになった「過激派」の一部として今でも活動中だ(本人たちがそう名乗っているわけではない)。この5月のIMC 18th Report(対象期間は2007年9月1日から2008年2月29日)のあともさらに活動は活発化しているらしい。つい先日ガーディアンにいきなり「戦争は終わっていない」というCIRAのグラフィティつきで出た記事はそういう話だ。(ただしこれ、その後の続報が私の見ている範囲でないので、コンテクストがよくわからない。)

自動車爆弾を仕掛けたReal IRAのリーダー、マイケル・マッケヴィットはアイルランド共和国でRIRAの活動で起訴され、一審で有罪判決を受けた(2003年8月)。マッケヴィットは一審での検察側の証拠の開示が事前に不十分だったことを理由に控訴・上告していたが、この7月30日に最高裁で訴えが棄却された。
http://www.rte.ie/news/2008/0730/mckevittm.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7533325.stm

※書きかけ(おいおい)




ひどくどうでもいいのだけれど、『オマー』でマイケル・ギャラガーさんを演じたジェラルド・マクソーリーという俳優さんは、オマーの出身で、映画『父の祈りを』でジェリー・コンロンに強引に自白させたRUCの捜査官を演じていた。(先日、サラ・コンロンさんの訃報を聞いたあとに『父の祈りを』を見直して気付いた。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerard_McSorley

IMDBを見ると、ジェラルド・マクソーリーは『ブラディ・サンデー』でも『Some Mother's Son』でもクレジットされている。NI紛争とは直接の関係のない映画では『ヴェロニカ・ゲリン』(怖い人)、『ナイロビの蜂』……『ヴェロニカ・ゲリン』は『オマー』見たときに気付いたけど、『ナイロビの蜂』に出ていたことは気づかなかった。サー・ケネス・カーティスなのに……何を見てたんだろ、私は。
http://www.imdb.com/name/nm0574561/

いずれにせよ、「ケビン・ベーコン・ゲーム」でキーになる俳優さんであることは間違いない。

※この記事は

2008年07月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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