kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2019年10月05日

パリ警視庁での衝撃的な事件について、英語圏ネット上極右界隈で言われていることのメモ

10月3日(木)、フランス、パリのシテ島にあるパリ警視庁で職員とみられる男が刃物で4人の職員を刺殺、その後本人も警察官に射殺されるという衝撃的な事件があった。殺された3人は情報部門職員、1人は人事部職員とのことで、容疑者を射殺したのは着任してまだ数日にしかならない若いインターンだったという。

事件の前日、フランスでは警官たちが、いわゆる「ブラックな」労働環境に抗議してデモを行っていたが、3日の事件は、警察からの公式のステートメントがまだ出てなくてもろもろ不明だった段階でも、デモと関係があるということは言われていなかった。実際にデモとは無関係だったようだ。

衝撃的な事件の後、しばらくは(フランスの事件報道ではよくある)情報錯綜と情報統制の奇妙な共存が続いていたようだが、日本時間で土曜日になって、「予備捜査の結果、容疑者が過激思想に傾倒していた可能性があることが示された」という報道がなされている。このAFP以外の報道記事を見ると、仕事で過激派の情報に接していたということだ。一方で、自宅の捜索では過激化の兆候は一切見つからなかったという。職場で過激化されていたと仮定して、自宅には過激化を示すものは何もなかったとすると、自宅には職場のものは一切、情報の一片たりとも持ち帰っていなかったのだろう。

そういうこと(職場と自宅とは完全に別にすること)が要求される仕事だったのだろう。

――ここで私はおまじないのマニキュアを塗る。15歳女子を装ってネットでイスイス団の人員と接触し、彼らのリクルート(人員募集)活動がどのように行われるかを身体を張って報告したフランスのジャーナリスト、アンナ・エレル(仮名)の本にマニキュアのことが書いてあって(「15歳女子」を自分の元に来させようとするイスイス団の男は、Skypeの画面で彼女が爪を塗っていることに気づき、そのようなことはしてはならないというくだらない教義を言って聞かせる。ああいうくだらない教義は、カルト教団が声をかけた人物がその思想を本当に信じたかどうかを試す試金石として用いられるものとして典型的だ。日常の中のほんの小さな、くだらないことを変えさせることで「自分は生まれ変わった、別の人間になった」と思わせていく)、それを読んで以来、私はずっとそっち系の情報に接するとき(この指先でそのことについて書くとき)、発色のよいマニキュアを遠慮なく塗っている。あたかも指先にこれがあれば、ああいうのが浸透してくることが防げる、といわんばかりに遠慮なく。

ジハーディストのベールをかぶった私
ジハーディストのベールをかぶった私

さて、本題。パリでの事件について。


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posted by nofrills at 20:00 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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