kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年07月11日

2018年のthe 11th Nightは、近年珍しいほどに不穏な雰囲気だ。

というわけで暑い。近場の地域猫温度計によると35度(いつも人と目が合ったらぴゅーっと逃げていくねこさんが、今日は風通しのよい場所でコンクリの上にぐでーっと溶けたまま、じーっとこっちを見て、立ち上がるそぶりすら見せなかった)。まだ7月上旬ですよね、と思っていたが、今日はもう11日なのだった。

trendsbelfast11july2018.png7月11日。スレブレニツァ虐殺の日(と書くと「スレブレニツァだけないですよ」とか「セルビアだけじゃないですよ」とか「『戦争広告代理店』を知らないんですか」とかいう人から噛み付いてこられるので一応明示しておくと、「だけ」なんてことは言ってませんし、『戦争広告代理店』云々は虐殺が実際にあったことを否定するものではありません。否定論者はどっか行け、しっしっ)であり、北アイルランドでは毎年恒例の「イレヴンス」の日。今年はサッカーのワールドカップでイングランドが4強に残り、決勝進出をかけた試合が行われるっていうんで、私の通常の観測範囲は基本的に「その話でもちきり」の状態に近いが、ふとベルファストを見に行ってみると、やはり微妙に違っていた。

Trendsで1番上にあるBloomfield Walkwayは、この場所に設置されている11th Nightのボンファイアが11thの夜を迎える前に燃えた(燃やされた)ということでニュースになっているのだが、単に「何者かが火をつけた」ということだけではなく、現在の北アイルランドの過激派周りでキーとなる感じということで注目されているらしい。

「過激派」といってもあっち側ではない。そっち側だ。

Bloomfield Walkwayという通りの名をGoogle Mapsに投げても、どんぴしゃのものは見せてくれない(Googleには限界があるということを知るにはいい例だ)。私が見たときには近似値として "Bloomfield Avenue, Belfast" にピンを立ててくれやがったが、その通りにはボンファイアを設置するスペースなどない。つまりGoogleが「間違ってるかもしれないんですが」と言いもせずにしれっと示しているのは、「間違った答え」だ。

この場所を正確に知るには、別ソースから当たる必要がある。7日付ベルファスト・テレグラフの記事より:
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posted by nofrills at 20:50 | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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