kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年07月08日

"Football is coming home" というお歌と、「イングランド」の包括性

イングランドがスウェーデンを破り、準決勝にコマを進めた。テキスト実況でしか見ていない(映像を見ていない)ので「快進撃」という表現が果たして妥当なのかどうかよくわからないが、ワールドカップでイングランドの「お通夜」を見ることなく「お祭り騒ぎ」を見る、ということが続いていること自体、感慨深いことだ。

特に準々決勝でのスウェーデンとの試合があった今日は土曜日で、Twitterには「結婚式だというのに誰もが気もそぞろ」という報告あちらこちらから上がっている

始まるまでは、あんなに盛り上がってなかったのに。

今回のワールドカップ、事前の盛り上がりがなかったのは、直前での監督解任という異様なことが起きていた日本だけではない。イングランド――というか、UKの一般メディアでも、事前にはあまり関心が払われていなかったのではないかと思う。開催地がロシアであること、そして2018年3月のソールズベリーでの化学兵器による襲撃事件などもあって、ロシアに対する英国の感情は、控え目に言っても「とても悪い」ということも作用しているだろう。大会開幕前によくありがちな「開催地のトラベルガイド」のような記事も見なかったし、逆に「こんなことで開幕できるのか」的な煽り記事(2010年南ア大会のときが本当にひどかった)もずいぶん前にならあったかな、という感じ。

それどころか、開幕直前に愛国タブロイドThe Sunが、ラヒーム・スターリングが右脚に入れたタトゥーを「問題視」するとかいうわけのわからないことをしていて、リネカーさんが「大会前にプレイヤーの気持ちを折ろうとするメディアの奇習」といったことをTwitterで述べていたくらいだ(この「報道」は逆に、スターリング本人にそのタトゥーの理由を説明する機会を与えることとなったのだが。ちなみに彼のタトゥーはM16機関銃で、それを入れた理由は、彼が子供のころに銃で殺された父親のことを踏まえて、「俺は銃は持たない。俺には右脚があるから」ということを表現するため)。

しかし開幕してみれば、ガレス・サウスゲイト率いるイングランドは快進撃で、試合のあった日はほぼ必ず、♪It's coming home, it's coming home... のお歌が(ヴァーチャル空間に)響き渡るという様相だ。



この曲は元々、1996年――1966年にイングランドがワールドカップを手にしてから30年後――の欧州選手権(EURO)イングランド大会のときに、イングランドの公式応援歌としてリリースされた。いろんな意味で「イングランドらしい」曲だ。

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posted by nofrills at 03:20 | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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