kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2018年06月11日

英国のEU離脱とロシアの関係についてオブザーヴァーの調査報道記事が出る直前に、「サンデー・タイムズのスクープ」という〈物語〉がBBCなどでもでっち上げられた件

6月10日付のオブザーヴァーで、Brexitを強力にプッシュしたキャンペーン・グループに活動資金を出してきた富豪が、これまで考えられていたより深くロシアとつながっていたという疑惑が裏付けられたという報道があった(オブザーヴァーはガーディアンの日曜版で、ウェブサイトへの掲載は前日の土曜日、9日の深夜というタイムスタンプになっている)。記事に署名があるのは、Facebookとケンブリッジ・アナリティカに関する調査報道で陣頭に立ったキャロル・カドウォーラダー記者。

Arron Banks ‘met with Russian officials multiple times before Brexit vote’
Documents seen by Observer suggest multiple meetings between 2015 and 2017
Carole Cadwalladr and Peter Jukes, Sat 9 Jun 2018 23.35 BST
https://www.theguardian.com/politics/2018/jun/09/arron-banks-russia-brexit-meeting
The communications suggest:

- Multiple meetings between the leaders of Leave.EU and high-ranking Russian officials, from November 2015 to 2017.

- Two meetings in the week Leave.EU launched its official campaign.

- An introduction to a Russian businessman, by the Russian ambassador, the day after Leave.EU launched its campaign, who reportedly offered Banks a multibillion dollar opportunity to buy Russian goldmines.

- A trip to Moscow in February 2016 to meet key partners and financiers behind a gold project, including a Russian bank.

- Continued extensive contact in the run-up to the US election when Banks, his business partner and Leave.EU spokesman Andy Wigmore, and Nigel Farage campaigned in the US to support Donald Trump’s candidacy.


私がこの記事に気づいたのは日本時間で10日の朝8時前のこと。ガーディアンのスマホのアプリをチェックしたときにトップニュースになっていた。

スクショを取っておかなかったのが悔やまれるが(その後、所用を済ませて夕方になるころにはトップニュースはG7サミット閉幕の記事に切り替わっていて確認できず)、Exclusive(オブザーヴァー独占)とは書かれていなかったと思う。だが、形式的には「オブザーヴァーが確認した文書によると」なので「独占」という扱いで出ててもよいはずだ。

「他のメディアにも同じ文書がばらまかれて、各社一斉報道ということなのかな」と思ったが、その時点ではBBCには記事がなく、「各社一斉報道」の線は消えた。

何だろうな、という疑問が解けたのは、所用を済ませたあと、夕方になってパソコンを立ち上げたあとだった。Arron Banksの名前がTrends (UK) に入っていたので、「オブザーヴァーのスクープ(だと私は思っていた)が大反響のようだ」と思いながらクリックすると、目に飛び込んできたのはオブザーヴァーではなく、サンデー・タイムズの記事についての大量のツイートだった。2紙同時報道? ネタかぶり?


【続きを読む】
posted by nofrills at 09:31 | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月03日

A Very English Scandal: ジェレミー・ソープという政治家の疑惑と、BBCの消していなかった調査報道テープ

英国で、1960年代から70年代に活躍した政治家に、ジェレミー・ソープという人がいる。1929年生まれで、最初に国会議員になったときはまだ30歳だった。イートン校からオックスフォード大というエリートコースを歩んできた彼は、名門の出で、父親と母方の祖父は保守党の国会議員だったが、自身は当時党勢を失っていた自由党(1988年以降は自由民主党: Liberal Democratic Party)に入った。1967年には自由党の党首に選出された。

1970年代、保守党と労働党の二大政党の人気が低落する中、自由党は「第三極」として選挙で成功を収めるようになった。保守党のテッド・ヒース首相が足場を固めようとして戦った1974年2月の総選挙で、労働党のハロルド・ウィルソンを相手に大苦戦というか37議席も減らすという体たらくに終わり(2017年のテリーザ・メイの愚かな総選挙によく似ている)、保守党が297議席、労働党が301議席のhung parliamentとなったときには、14議席を獲得していたソープの自由党が保守党の連立相手として交渉が行われた(サニングデール合意によってアルスター・ユニオニストが離反していたため、保守党にはほかに頼れる政党がない状態だった)。しかしこのとき、ソープが得票率と獲得議席の乖離を修正する選挙法改正を求めたことで連立交渉は決裂し(これは2010年の選挙とよく似てるけど、2010年は選挙法改正運動そのものがふにゃふにゃにされて終わってしまった)、保守党のヒースは辞任し、組閣は労働党のウィルソンが行うことになった(その後、同じ年の10月に改めて選挙が行われ、ウィルソンの労働党が単独過半数を取って、安定した労働党政権が発足した)。

1950年代、ソープは、大学を出て法律家(バリスター)の資格を得ていたが、それでは満足に暮らしていけなかったので、テレビのジャーナリズムで仕事をするようになった。元から植民地主義や人種隔離(アパルトヘイト)を改善しなければならない(でないと社会主義に対抗できなくなる)と考えて活動してきた彼は、1950年代の激動の世界情勢を伝えるジャーナリストとして存在感を示していたことだろう。

ジャーナリズムの道は政治家と両立できず、彼はテレビの仕事はやめてしまったようだが、その経験は「テレビ映え」という点で彼の中によい財産として残ったようだ。自由党党首となったソープの会見の様子(下にエンベッドするものの前半)や、TVでのインタビュー(音声なし)のBritish Patheの記録映像を見ると、「この政治家は人気があっただろうな」と思える。





しかもその主張が、「弱者」への思いに満ちている。下記はトラファルガー・スクエアでロンドンの労働者階級の劣悪な住環境を改善すべきと演説しているときのもの。どうでもいいけどハトがすごい。


しかし、このようにキラキラと輝いていた時期には既に、ジェレミー・ソープには隠蔽すべき秘密があった。

【続きを読む】
posted by nofrills at 08:01 | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む