kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年01月29日

骨折生活のディテール

kght01.jpg2018年初めて見た夢は、「うーん、うーん、どうして今日はこんなに荷物が重いんだろう」という夢だった。「うーん、うーん、重い……」と右手を見下ろしたときに目に入ったのは、ギプスをあてて包帯でぐるぐる巻きにしてある自分の右腕だった。

何とわかりやすい。(・_・)

……と思って、そのときはもう一度寝た。だがその後も何度か「荷物が重いという夢」を見ることになった。今どきのギプスは、昔の石膏製とは違ってグラスファイバー製で軽いと説明されはするが、日がな一日装着していればやはり重い。しかも何日もの間ずっと着けているわけで、そのころには骨折にともなう炎症の痛みなのか、腕を同じ形にしているため、およびギプスの重さを支えているための筋肉痛なのか、何が何なのかわからなくなっていた。

受傷後1ヶ月を経過して、そういう「うなされる」ような状態もおさまってきたし、ギプスも取れた(最初は「お風呂に入るとき以外は着けていてください」だったのが、しばらくして回復が順調であることが確認された段階で「家の中にいるときは外して、日常動作の中で肘の曲げ伸ばしをしてください」となり、その次にはギプスなしで日常生活を送るようにと指示された←今ココ)。まだ手首の回転はしてはいけないし――人間の体の構造上、肘の関節内の骨折で、手首の回転ができなくなる――、肘に力が加わるような動作はできない(ずっしりくる荷物は持てないし、手をついて体重をかけるようなことは絶対にだめ)が、理学療法を受け、教えられたストレッチやマッサージをしていくうちに、徐々に関節の稼動域が回復しつつある。それでもまだ、90度くらいしか曲がらないので、「右肘を曲げて右手で右肩を触る」というような動作はできないし、右手で食事もほとんどできない。それでも、先週までは大きな(長い)フォーク&スプーンを使っても左手でしか食事できなかったのが、今週は(子供みたいな持ち方をして肘を高く持ち上げねばならないとはいえ)右手でも何とか食事できるようになったし、右手で鼻の頭を触るという動作もできるようになった(約1ヶ月ぶりに右手をそえて鼻をかめたときには「おお」と思った)。顔の角度を工夫しさえすれば、パウダーとブラシで眉毛も右手で描ける(既に、眉毛くらいは左手で書けるようになっているのだが)。当面の目標は右手でお箸を使い(もう1ヶ月以上、お箸で食事していない)、アイラインが引けるようになることだが、そこに到達するにはまだまだ時間がかかるだろう。

そう、前方不注意の自転車に思い切り衝突されて転ばされただけで、こんなにも長期にわたり、こんなにも不自由な生活を強いられる。

以下はそのディテールの記録である。単に「片手が使えない」というだけでは想像のつかないようなディテールだ。単に「一時的に片手(それも利き腕)が使えない状態になった」といっても、抽象的に何となく想像してみるのと、実際にそれを体験してみるのとでは全然違うというか、想像が及ばないところが生活動作の細部のあちこちにある。そういったことを記録しておこうと思う。

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2018年01月17日

【訃報】ドロレス・オリオーダン(ザ・クランベリーズ)――そしてZombieという曲

15日(日本時間では16日早朝)、各メディアでその「急死」が報じられた。最新の報道では「疑わしい死ではない(事件性はない)」と報じられているが、死因などはまだ明らかになっていない。何よりもまだ、身体が暖かいような段階で、そのようなことは取り沙汰/詮索すべきことでもない。一般人にとって重要なのは、彼女は死んでしまったという事実だけだ。彼女のあの声は二度と発せられることがない。

ドロレス・オリオーダン (Dolores O'Riordan). 1971年9月生まれ。まだわずか46歳だった。

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1990年代、「グランジ」がメインストリームの音楽になり、あのガサついた音に対抗するかのように「ブリットポップ」がもてはやされ、スウェーデンのポップが流行し、ほか非ロック系ポップソングがラジオや商店のBGM(有線放送)で流れてきていた時期に、日本では「アイルランド音楽」が大きく注目されたことがあった。それもザ・ダブリナーズとかザ・ポーグスとかではなく、女性が歌うものだ。エンヤのCDは売れまくり、雑誌には大きな広告が出ていて、街のあちこちに大きな看板が出ていた。「おしゃれ」さや「癒し系」を演出したい店は店内でエンヤのCDをかけていたし、CMでも使われていたから、エンヤの信じがたいほど透明な声は、文字通り毎日耳にしていた。シネイド・オコーナー(当時の表記ではシンニード・オコーナー)の顔と名前が一致しない人は「リアルタイムの洋楽」に関心のない人に限られていただろう。ドロレス・オリオーダンが「紅一点のヴォーカル」だったバンド、ザ・クランベリーズもそういう中でヒットした。当時、いろいろとロック〜フォーク系の女性ヴォーカルものが売れていたから(スザンヌ・ヴェガとかマジー・スターとか)、そういう流れもあったかもしれない。

ザ・クランベリーズのファーストに入っていたDreamsという曲は、「生茶」というペットボトルのお茶のCMに使われたから、聞き覚えのある人は多いだろう。(確か松嶋奈々子だったと思うので、90年代というより00年代に近いほうだろうか……今調べてみたら発売は2000年だそうだ。)



そしてこの声。一度聞いたら忘れられないようなこの声の持ち主が、2018年1月15日に、レコーディングのために訪れていたロンドンのホテルで、まだ46歳という年齢で、死んでしまったのだ。

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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