kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年12月31日

前方不注意の自転車に激突され、骨折した……いや、骨折させられた。

「おい」と思った次の瞬間には衝撃を受けていた。その衝撃を受けた瞬間、「ハンドルを離さないと、自転車ともつれて、よけいひどいことになるな」と思ったことははっきり覚えている。私はそうしたのだろうか。そうしたのだろう。実際、そうしていたから、肩も頭も無事なんだろう。

幸い、自転車は壊れなかった。相手の自転車と絡み合って外せなくなるようなこともなかった。っていうか倒れたのはこちらだけ。つまり一方的に倒されたのだ。相手は側の構造物の壁に自分の自転車をもたせかけ、無傷で立ってたのだから。

Twitterですでに書いているが、「来週はもう仕事納めですね」ってときになってから、自転車で事故にあった。双方自転車だ。こちらは基本スピードなど出ないタイプのミニベロ車(折り畳みを街乗りで使っている)、相手は、私は自転車には特に詳しくないので特定はできないが、ロードバイクだかクロスバイクだか、とにかくスピードが出る種類の自転車で、「あさひ」などのショップでよく見かけるブランドのもの。それが、猛スピードで真横から突っ込んできた。といっても「交差点での事故」ではない。当方は道路(歩行者と自転車が通れるようになっている公道)を減速して左側走行中で、相手は商業施設の自転車置き場からその道路に出るための細い通路を、スピードを出して、道路手前で一時停止もせず、つっこんできた(そもそもその通路は、自転車に乗って走行すべき通路ではないのだが)。

負傷して通院し、処方箋を出してもらって湿布薬や痛み止めを受け取りに行く薬局で、薬剤師さんが「どうしたんですか」と声をかけてくれるので、「あの施設の横の自転車置き場からの通路を爆走してきた自転車に衝突されたんですよ」、「えー、こわい。あそこ、歩行者もいっぱいいるじゃないですか」、「ですよねー。それに通路は自転車乗車禁止ですけど、それでも乗ってくるのがいるし、それも猛スピードで、前方確認してない」、「ながらスマホとか、今多いですもんねー」、「一瞬だったんでそこまでは確認できなかったんですけど、そうかも」などと話す。事故現場はここの最寄り駅近くではないのだが、日常の足として自転車を使う人なら十分に毎日の行動範囲に入るし、施設名を挙げて「あの横」というと、「あー、あそこ、やばいっすよね」的な「ヒヤリ・ハット」なエピソードが出てくる。

路面にたたきつけられてしばらく息もできず、痛みに固まって、ただ「路面、冷たい……」ということしかわからない状態で、身を起こすことなど当然できずにいた私に、「すみません」の一言もなく、カジュアルな「だいじょうぶかい」という言葉を何度かかけ、倒れて起き上がれずにいる人間に手を差し出してとっとと起こそう(あちらにしてみれば「助け起こそうとした」つもりかもしれないが)とした相手、スピードを出して自転車に乗って移動すべきでないところを猛スピードで突進してきた相手は、30歳くらいと思われる男だった。自転車はクロスバイクなのかロードバイクなのかは私にはわからなかったがママチャリではなくそういう系で、前かごなどはついておらず、荷物を運ぶような用途ではなく乗るためだけに使われていることは明白で、つまり、そんな自転車で、歩行者と共有している道路を、そんなスピードで走ってんの、といわずにはいられないようなもの。しかも奴が走ってきたのは「道路」ですらない。駐輪場から道路に出るまでに使う「通路」だ。「自転車は押して歩きましょう」と注意喚起されているような通路。

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posted by nofrills at 14:51 | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

《記憶》と《記録》。反共作戦のためラオスに介入したCIAの一員だった父親の真実を、ジャーナリストとなった息子が知るとき

BBC Newsのサイトでこんな記事を読んだ。

大学に進む前の夏のことだ。古いボルボに乗って、父と私はドライブに出かけた。父と私だけというのは、それまでなかったことだ。シートベルトを着用し、車を発進させた。砂利道には砂埃が舞った。

信号待ちで停車中、「ピーター、そろそろお父さんたちの仕事のことを伝えておこうと思う」と父はハンドルを指でこつこつと叩きながら言った。信号が青になり、車は大通りに出た。

「スパイなんだ」

父は真顔で冗談を言う人だった。しかし、いつもの冗談にしては非常にわざとらしいし、それに面白くも何ともない。日常の買い物をするショッピングセンターと電柱がひしめき合っているような郊外地の街を抜けながら、父は私に、もう40年近く、密かにCIAの仕事をしてきたのだと語った。

父はなーんちゃってと言うわけでもなく、沈黙が重苦しくなってきて、ああ、これは冗談じゃないんだ、と私は思った。

「母さんは知ってるの」と私は尋ねた。

「ああ、母さんか。母さんも、同じ仕事だ」と父は言った。

(親がCIAの秘密工作員だったというと)人からよく「おかしいなと思ったことは何もなかったんですか」と訊かれる。なかったですね。兄弟たちも私も、何も疑わしいと思わなかった。

両親は国務省で書類仕事にいそしむ役人なのだと思っていたが、実際のところ、仕事の内容がどういうものかはよく知らなかった。だいたい、成長過程にある子供にとって親がやってることといえば、耐え難いほど凡庸なことに決まっている。実はそうではないのだということに気づくには、もう少し大人になる必要がある。

1960年代、米軍兵士たちがC-130からベトナムの地に降り立っていたころ、CIAはラオスで極秘戦争を戦っていた。冷戦の最盛期で、CIAは私の父と工作員の一団を、ラオスの高地に住むモン族 (Hmong) に武器を与え訓練を施すために、送り込んだ。その目的は共産主義勢力パテート・ラーオと北ベトナムとの戦いだ。

CIAがモン族を強化していたのか、それともモン族を雇用していたのかははっきりとは判断しがたい。事態が過去となった今では、双方ともが、彼らのためになるよう協力していたのだと考えているようだ。

しかし、CIAの人々の多くは、モン族のレジスタンスは敗北するに決まっていると認識していた。ウシアブの群れが水牛を倒そうとするようなものだと。ベトナム戦争が終わったあと、CIAは突然ラオスから撤退し、それによりモン族の人々は、数千人単位で、ひょっとしたら数万人単位で脱出せざるを得なくなった。

これが、父にとって、中央情報局(CIA)での最初のミッションだった。

My father fought the CIA's secret war in Laos
http://www.bbc.com/news/world-us-canada-42314701
(英→日、拙訳)


2人きりのドライブで息子のピーターに事実を告げた数年後、父親のアランは他界した。死の床で彼は息子に向かい、ラオスでやったことを誇りに思っていると告げた。

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posted by nofrills at 20:20 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

「はいはい陰謀論陰謀論」では終わらなくなったこの世界に――映画『 #否定と肯定 (Denial)』

ほぼ満席の映画館。大きなスクリーンに靴の山が映し出される。展示室の、ガラスの向こうの、くちゃくちゃになった古い汚い靴の山。この靴を履いていた人たちは、ほとんど口にすることもできないようなむごたらしい殺され方をした。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所。スクリーンの中でその「聖地」を訪れている人々の目的は「巡礼」ではない。「実証」だ。しかしそれは否応なしに感情を揺さぶる。祈りの歌が口をついて出る。雪が舞い落ちるなか、デボラ・リップシュタットは祈りを声に出している。学者が、歴史学者が祈っている。

映画Denialを見てきた。邦題は『否定と肯定』。映画を見る前は、原題にない「と肯定」に「正直、それどうなの」と思っていた。議論にならないことを議論にする(何かを「否定」してみせることで、「何かを『肯定』している人々」を現前させ、それを「論敵」とする)のが連中の手口。Denialという原題の映画に、「否定論」の隆盛っぷりが、それこそ議論の余地もないほどになっている日本語圏で、原題にはない「と肯定」を付け加えて公開することで、連中の手口に乗ってしまっている(もっとはっきり言えば加担している)のではないか、と思ったのだ。が、映画を見て私は納得した(納得しない人もいると思う)。とても密度の高い、テンポの速いシーンで、セリフを聞くことでいっぱいいっぱいになってしまったのだが(字幕を追ってもいっぱいいっぱいになっていたと思う)、「と肯定」については、映画の中でリップシュタットと弁護団との議論のシーンで語られていた。確かにそれは、リップシュタットと彼女の弁護団があのばかばかしい、なおかつ戦いづらい裁判を、英国の法廷という戦いづらい場で戦う上で、必要とされた議論だった(何よりこの映画は「法廷ドラマ」だ)。

そしてそれは、映画館入り口脇に貼られていたポスターが言うような「ナチスによる大量虐殺は、真実か虚構か」という議論ではなかった。話をそこに持っていくこと――話をすりかえることが、否定論者(歴史修正主義者)の目的だ。

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「大量虐殺(ホロコースト)は真実か、それとも虚構か」という《ことば》を現実世界に持ち込んでリアルなものにしようとするということを、彼らdenialists(否定論者たち)はやってきたし(映画冒頭で示されている通り)、今でもやっている。その二項対立自体が「虚構」である、というのがまっとうな態度だし、リップシュタットのような学者はそういう態度を当然取っているのだが(つまり否定論者のことは最初から相手にしていない。完全に無視する)、否定論者たちは、無視されること自体を「私たちは正しいということを示すもの」として喧伝し、そして多くの賛同者・支持者を獲得する。このあたりは、各種陰謀論やホメオパシーを含む疑似科学の論者がとる論法と同じパターンだ。

彼ら(映画の中では「ダヴィデとゴリアテ」の「ダヴィデ」に自分をなぞらえているデイヴィッド・アーヴィングひとりだけだが、アーヴィングの発言はツンデル、ロイヒターという否定論者の発言とつながっている。詳細はウィキペディア日本語版の「ロイヒター・レポート」の項を参照。何を見ても「日本は、日本は」と言わなければ気がすまない人はホロコースト否定論の原稿が掲載されたあとで廃刊された「マルコポーロ」に絡んで石田勇治先生が述べていることがウィキペディア日本語版に引用されているのでそれを参照すれば、ある程度気が済むと思う)が、なぜ「ガス室」に異様なこだわりを見せるのか、私は正確には知らない。ガス室があろうとなかろうと(←「なかった」と言っているわけでも、「なかった」という言い分をまっとうなものとして受け取っているわけでもない。念のため)、食事も乏しく伝染病が蔓延する劣悪な環境の中、強制労働に従事させられた人々が――それも当時の概念での「人種」や「思想信条」によりゲシュタポに逮捕されて連行されてきた人々が――何百万人という単位で命を奪われ、焼かれてきたのだ。「ガス室」だけを問題とするのは、ちょっと不適切なアナロジーかもしれないが、シリア内戦において政権側が自国民の上に使ったクラスター爆弾や樽爆弾のことを問わずに化学兵器だけ問題にするようなこと、広島・長崎に投下された原爆だけを問題とし、東京・大阪・名古屋はもちろん日本各地の大都市・都市に雨あられと投下された焼夷弾はスルーするようなことだ。つまり、お笑いのツッコミ的に言えば「そこかい!」、「否定するのなら、否定すべきはそれだけじゃないだろ」ということ。しかし、どうやら彼らにとって「ガス室」の《物語性》は、何か特別なものだ。彼らの考え方では、世界を思うがままにしようとする闇の勢力は、「ガス室などというとんでもない物語(フィクション、神話)」を真実として人々に信じさせることによって、人々を「思考停止」に追いやり、自身の支配を確実にしようとしている、ということになっているようだ。(そしてそのような情報操作にやられず、真相に気づいている自分たちはすごい、という《信念》もそういうところから生まれる。)

いや、そればかりではない。その「ガス室神話」を打ち砕くことによって、より大きな何かを成し遂げることができるという突破口的な存在なのだ。そこが崩せれば、すべてが崩せる、というようなシンボル。

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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