kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年05月22日

チェルシー・マニングの釈放について(支援目的のベネフィット・アルバムも出ています)

7年前、Instagramはまだなかったよね。そのころ、彼女はまだ公的には「彼」で、名前も「チェルシー」ではなく「ブラッドリー」だった。

「ブラッドリー」は米軍人(情報分析官)で、イラク駐留米軍で仕事をしていて、米軍がイラクやアフガニスタンで何をしてきたかについての現場の記録や大量の外交公電、バラク・オバマが「閉鎖」を公約し、大統領に就任して最初に文書にサインしながら結局は閉鎖することができなかったグアンタナモ収容所での文書類など多くの機密ファイル(と機密指定されていなかった大量の文書)を、「レディガガ」と書いたCD-RWを使って、密かに持ち出した。持ち出されたそれらの記録や文書は、当時はまだ「内部告発サイト」だったウィキリークス(ダニエルもいた頃のことだ)に、匿名で送られた。送り主が誰なのかわからないそれらのファイルは、大手メディアのジャーナリストたちによる検証というプロセスを経て、ウィキリークスと各メディアで公開された。

2010年4月「コラテラル・マーダー」と題されたビデオ:
https://www.youtube.com/watch?v=5rXPrfnU3G0
※今から10年前、2007年7月12日にイラクのバグダード市内で武装勢力による米軍に対する攻撃が発生した直後、米軍ヘリが街路にいる非武装の民間人(うち2人はロイターのジャーナリスト)を標的として攻撃を加える一部始終を記録した軍のビデオ。当時、米軍が何かと連発していた「コラテラル・ダメージ」を皮肉って「実際のところ、殺人だ」というタイトルをつけたのはウィキリークス。

2010年7月「アフガニスタン戦争ログ」を報じたガーディアンのカテゴリー・ページ:
https://www.theguardian.com/world/the-war-logs

2010年10月「イラク戦争ログ」を報じたガーディアンのカテゴリー・ページ:
https://www.theguardian.com/world/iraq-war-logs
※このころまだザルカウィが "al-Qaida kingpin" と扱われてますね。2014年夏以降は「イスイス団のルーツ」となって、ザルカウィがAQとは常に距離を取っていたことが明確に説明されるようになってますが、この頃はまだ「ずっと前に死んだAQのテロリストの親玉」だったので。

2010年11月〜12月「米外交公電」を報じたガーディアンのカテゴリー・ページ:
https://www.theguardian.com/us-news/the-us-embassy-cables

「コラテラル・マーダー」の映像が公開されて1ヵ月もしないうちに、「ブラッドリー」は軍当局に身柄を拘束され、軍の拘置施設(刑務所)に入れられた。オンライン・チャットで自分がこれらの記録を盗み出したと語った相手が、司法取引によって、「ハッカー・コミュニティ」の中からFBIに情報をもたらすようになった人物だったのだ。

それから随分時間をかけて、当局は「ブラッドリー」を起訴し、軍事法廷で裁判を行なった。容疑の中には「スパイ罪」も含まれていたが、最終的には「スパイ罪」は無罪となり、情報を盗み出したことなどで有罪判決が下され、禁固35年というとんでもなく重い刑罰が言い渡された。

軍刑務所に拘束されている間に、「ブラッドリー」はGD(ジェンダー・ディスフォリア、性別違和)の診断を受け、当局には依然として男性扱いされながら、ホルモン投与など性別適合の治療を開始した。名前も「チェルシー」と改名し、「代名詞は女性形 (she, her, her, hers) を使ってほしい」という意思を表明した。

そのチェルシー・マニングが、2017年5月17日、釈放された。任期中、「内部告発者」への締め付けを強める一方だったバラク・オバマが大統領として最後にやった大きな仕事が、情報漏洩で有罪となったマニングの、あまりにも長い「禁固35年」という刑を、大幅に減刑することだった。

……ということについて、本人のツイートやニュースのフィードなどを中心に、一覧できるようにしてあります。

チェルシー・マニングが釈放された。
https://matome.naver.jp/odai/2149531902254898801

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2017年05月21日

【訃報】ブレンダン・ダディ(表に出ないところで和平のために尽力した北アイルランドのビジネスマン)

ニュースがあってから随分時間があいてしまったが、12日、ブレンダン・ダディさんが亡くなった。80歳だった。

ダディさんは地元デリーで大変に成功した実業家だったが政治家ではないし、「著名人」のカテゴリーには入らない。しかし、その死に際しては北アイルランド自治政府トップのアーリーン・フォスター(DUP)もシン・フェイン党首のジェリー・アダムズも、アイルランド共和国のチャーリー・フラナガン外相も、またアイルランドのカトリック教会のトップであるマーティン大司教も哀悼の意を表明したし、15日に営まれた葬儀にはアイルランド共和国のヒギンズ大統領も参列していた。なぜか。それは、ダディさんが、すぐに結果など出ないようなことに、20年以上の時間をかけて取り組んだ結果が、現在の北アイルランドだからだ。

北アイルランド紛争が終結に向かう段階、つまり1994年の停戦と1998年の和平合意(ベルファスト合意、またはグッドフライデー合意)に至る段階での「和平の立役者」は何人もいる。ノーベル平和賞を受けたジョン・ヒューム(SDLP)とデイヴィッド・トリンブル(UUP)、シン・フェインを交渉の場に至らしめた故アレック・リード神父をはじめとする宗教家たちなどなど、ニュースになるような交渉の現場で指導的な役割を果たし、peacemakerと呼ばれうる人々だけでも十指に余るだろう。だが、ダディさんはそういう人々とも少し違う。

権利の平等(「1人1票」)を要求するカトリックの公民権運動と、それを支援する学生運動が合わさって大きなうねりとなり、それに対しプロテスタントの側(の過激派)が暴力を行使したことが、北アイルランド紛争の発端だ(「IRAが独立を求めて立ち上がった」のではない。1968年のデリーとベルファストで起きたことは、1916年のダブリンでのイースター蜂起と同じではないのだ)。当時の北アイルランド自治政府(「北アイルランド」の成立以後ずっとプロテスタントが権力を独占していた)と警察は、プロテスタントの側にいた。公民権運動の学生たちに襲い掛かるプロテスタントの暴徒を、警察はただ見ていた。「カトリック」のコミュニティには自衛の必要性が生じた。そこに、思想的に1920年代で時間が止まっているような武装組織の居場所ができた。はじめは、いわば「少数の変人たちの集団」でしかなかった武装組織は、一般の人々の間に根を張って拡大していった。

自治政府に任せておいても何もしないし、逆にますます悪化するだけだったので、プロテスタント側でもカトリック側でもない「中立」の仲裁者として英軍が派遣された。プロテスタントの襲撃から町を守ってくれる兵士たちを、カトリックの住宅街の人々はお茶とお菓子で歓迎した。このとき、英国政府は「北アイルランドの『トラブル』は、すぐに解決する」と見ていた。しかしそうはならなかった。

「トラブル」が、差別(「二級市民」扱い)という現実の中で、単なる「カトリックとプロテスタントの間のいさかい」ではなく、「アイリッシュ・ナショナリズムと、ブリテン/UKのユニオニズムの対立」であった以上、英軍(というか英国政府)がどのような立場をとるかは自明だ。「トラブル」は、「カトリック(ナショナリスト/リパブリカン)とプロテスタント(ユニオニスト/ロイヤリスト)と英軍」という構図になっていった。1971年8月には、ベルファストで一般市民11人が英軍によって殺された(バリーマーフィー事件)。だが、そのような構図を誰の目にもわかるような形で決定付けたのは、1972年1月30日にデリーで起きたこと、いわゆる「ブラディ・サンデー事件」だった。非武装の一般市民を撃ち殺したという事実を当時の英軍は認めていなかったが、殺された市民たちを知っているデリーの人々には英軍の嘘は見え透いていたし、デリーのみならずアイリッシュ・ナショナリストのコミュニティでもそうだった。「英国は、こちらが何をしようと聞く耳は持っていない。行動あるのみ、武力あるのみだ」という武装組織のプロパガンダは、きわめてリアルな説得力を持って人々の中に浸透していった。

英国政府は、そのように「事態が泥沼化」していくのを手をこまねいて見ていたわけではない。最初は「すぐに終わる」と思っていた軍の介入が長期化するにつれ、打開策を見つけるために「現地とのパイプ」を作ろうとした。ブラディ・サンデー事件の前、1970年代初めのことだ。白羽の矢が当たったのが、ボグサイドでフィッシュ&チップスの店を経営していたブレンダン・ダディさんだった。1936年生まれのダディさんは、このころ30代。公民権運動で熱くなっていた学生たちの一回り年上だ。

ダディさんの店にハンバーガーを納品していた肉屋の配達員は学生たちと同じ年頃だった。彼自身は教育をあまり受けていなかったが(日本で言う「中卒」だった)、配達の際、ダディさんの店で議論にふけっている学生たちに耳を傾けていた。ブラディ・サンデー事件の1972年1月には、彼はわずか21歳にして、デリーのProvisional IRA (PIRA) のナンバー2となっていた。マーティン・マクギネスである。

ダディさんはこの町の「顔役」だった。彼の友人には警察のお偉いさんもいて、情勢が悪化していくなか、公民権運動が続くボグサイドから、武装組織の武器を持ち出させるよう組織と話をつけてほしいという依頼を受けたりもしていた。当時IRAはPIRAとOIRAの両勢力が活動中で、ダディさんはどちらとも話ができる人物だった。

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2017年05月19日

【訃報】クリス・コーネル

「ブラックホールの太陽」がやってきたらしい。でも「そんな気配はなかった」そうだ。米ABCNYTの記事なども目を通したが、下記はガーディアンから。

Soundgarden frontman Chris Cornell died after hanging himself, a US coroner said on Thursday.

Cornell, 52, was found dead in a bathroom in his room at the MGM Grand Detroit hotel on Wednesday night after performing in the city with the grunge band.

Detroit police spokesman Dan Donakowski said that officers were called to Cornell’s room around midnight by a friend of the musician and found Cornell “laying in his bathroom, unresponsive and he had passed away”.

The Wayne county medical examiner’s office said after an initial autopsy the cause of Cornell’s death had been determined as suicide by hanging. “A full autopsy report has not yet been completed,” the office added.

Cornell’s publicist Brian Bumbery said earlier that the singer’s death was “sudden and unexpected”.

...

In the US, the National Suicide Prevention Hotline is 1-800-273-8255. In the UK, the Samaritans can be contacted on 116 123. In Australia, the crisis support service Lifeline is on 13 11 14.

https://www.theguardian.com/music/2017/may/18/soundgarden-chris-cornell-killed-himself-coroner-says




明確に説明する目的で書かれたような遺書があれば別だが、「なぜ」なんてことは、その「なぜ」を持って墓場に行った本人にしかわからない。家族も友人も、その本人でないのだから、わからないだろう。そのとき家族や友人が考えるのは、いや、考えずにはいられないのは、「なぜ気づかなかったのだろう。なぜわからなかったのだろう」ということだ。そしてそれは、その人の内部で「ブラックホールの太陽」となる。

いつかそれに食われるんじゃないか、そう思って日々を過ごしている人は、ものすごく大勢いるだろう。ひょっとしたらクリス・コーネルもその1人だったんじゃないのか(彼の歌詞は、そういう性質のものだ)。そのことがひとつの「思い」につながっていく。そうやって、個人の中のブラックホールは連鎖を引き起こすのだ。この連鎖は、断ち切らねばならない連鎖だ。

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2017年05月06日

極右のフリンジがメインストリームに発言の場を得ていても、もう驚くには値しない(英、元EDLのトミー・ロビンソン)

5月2日にこんなことになっていたのを、5日になってから知った。発端までさかのぼってみよう。

5月1日、ガーディアンのComment is Free (Opinion) のコーナーに、次のような記事が出た。Comment is Freeは、ガーディアンの社説(Editorial)を除いては、社員ではなく外部の書き手が書いた文章が掲載されるが、この記事を書いたのは、いわゆる「イスラム過激派」に対するカウンターの活動に重点を置いたロビー団体・シンクタンクのQuilliamでリサーチャーをしているオーストリア人フリーランスジャーナリストのJulia Ebnerという人だ。

The far right thrives on global networks. They must be fought online and off
https://www.theguardian.com/commentisfree/2017/may/01/far-right-networks-nationalists-hate-social-media-companies

Quilliam(旧称はThe Quilliam Foundation)は、19世紀にイスラム教に改宗して英国に最初のモスクを作ったウィリアム(改宗後はアブダラ)・クィリアムに因んで名づけられており、設立者はかつて実際に「過激派」の組織に属して活動していた英国人3人。「元過激派」として、過激主義に対抗する活動を行おうとこの組織を立ち上げた彼らのうちの1人がマアジド・ナワズ氏である。過激派活動に厳しいエジプトで投獄されるなどの経験をした自身のこれまでを振り返り、なぜ人は過激主義にはまるのかを考察した本を書き、テレビなどでもコメンテーターとして言葉で過激主義の浸透を食い止める活動をしている。Twitterなどソーシャル・メディアももちろん活用している。

0753540770Radical: My Journey from Islamist Extremism to a Democratic Awakening
Maajid Nawaz
WH Allen 2013-05-02

by G-Tools


そのナワズ氏のTwitterに、「トミー・ロビンソン」の名前があった。最近はもうほとんど名前を聞くこともなくなったイングランドの「反イスラム」集団(本人たちは「反イスラム過激主義」と言っていたが)、EDL (the English Defence League) の設立者のトミー・ロビンソンである(この名前は「活動家名」で本名ではないのだが、マスコミも一貫してこの名前を使っているのでそれに倣う)。

ロビンソンは2013年10月に、「組織が人種差別主義者に乗っ取られてしまった」として自分が設立したEDLを抜けているが、この離脱にはQuilliamが深く関わっている。

The turning point came when Robinson and Ansar visited the think tank Quilliam and Robinson witnessed a debate between Quilliam's director, Maajid Nawaz, and Ansar about human rights. Robinson said afterwards to the BBC: "I didn’t think a Muslim would confront Mo Ansar because I thought Mo Ansar was being built as the acceptable face of Islam; and that’s everything that I think is wrong. So when I saw this [debate between Nawaz and Ansar], and I read more about Quilliam and I looked at what Quilliam has done−they've actually brought change, which is what I want to do. I want to bring change. I want to tackle Islamist extremism, I want to tackle neo-Nazi extremism−they're opposite sides of the same coin."

https://en.wikipedia.org/wiki/Tommy_Robinson_(activist)#Leaving_the_EDL


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エディンバラ公の「死亡説」(付: ニセ情報の見分け方)

英国のエリザベス女王(先月、91歳の誕生日を迎えられた)の公務の場には、必ずエディンバラ公(もうすぐ96歳)の姿がある。ご結婚は1947年なので、今年で70年だ。ご夫妻の間に生まれた一番上の息子(チャールズ皇太子)は、68歳……ということを今回改めて確認して、改めて驚いた。

そのエディンバラ公について、日本時間で4日の昼間、ネット上で「死亡説」が流れるということがあった。発端は、英国で草木も眠る丑三つ時にバッキンガム宮殿のスタッフ全員が呼び集められたと報じられたことにあったのだが、その時間帯は英国ではほぼみんな寝ているのでいろいろと制御弁が利かなかったようで、ただでさえ細かいところがわかっていないアメリカの人々の間で「推測 speculation」が一気に「事実っぽいこと」として広まったようだ。その上、ソースを示さずに「英国のメディアによると」などとTwitterに書き込む輩も出現し、さらに王室情報専門のニュースサイト(っぽいところ)が「フランスのメディアが死亡を報じた」と、これまたソースも示さずに記事を出して(すぐに削除されたようだ)、アクセスが殺到してサイトが落ちるくらいにまでなってたそうだ。

その経緯をあとから参照できるようにまとめておいた。

エディンバラ公、公務から引退……のはずが、ネット上に「お悔やみ」とフェイク・ニュースが飛び交う事態に
https://matome.naver.jp/odai/2149390455690544501

おりしも、数日前は「世界報道デー」で、例年のごとく、報道が危機的なことになっている国へ関心を向けるよう促す記事などがTwitterにはたくさんフィードされていたが(今年はトルコがその筆頭だった……ほんの数年前まで「EU加盟」の可能性がかなり現実的だったあのトルコが、ついに)、それに加え、米大統領自ら陰謀論にはまりまくっているという考えがたい状況下にある現在の「報道(と一般の人々が思っているもの)」の抱えている問題点や、ネットで「報道(に見えるもの)」に接するときの注意点がわかりやすくまとめられたフィードもいくつかあった(後述)。

ネット、特にソーシャルメディアという「個人の意見や感想、感情の吐露」が、文脈なく、少ない文字数で流れてくる場では、誰にも何の悪意もなくても、「無根拠な情報」が「情報」としてひとり歩きすることがある。アーセナルのサポが「来シーズンこそはアーセナルがリーグ優勝するに違いない!」というつもりで、その文脈が共有されている人々だけに向けていろいろ省略して「アーセナル優勝!」と書いたものが、遠く離れたところで、イングランドのサッカーに興味はないけれど、友人が熱心なファンなのでチームの名前だけは知っているというような人の目に入って、「そういえば『アーセナル優勝』ってさっきネットで見たよ」というふうに伝言され、それが「『アーセナル優勝』だって」となっていく、というようなことはありうる。誰も「ニセ情報」をばらまくつもりがなくても、「ネットで見たよ」ってだけできわめてカジュアルな感じで「誤情報」が広まる。そこにガチで「ニセ情報」をばらまこうとするデマ屋も入ってくることがあるし、本当に実に混沌としていて、いろいろやりづらくなって、息苦しくなってきたと思う。

息苦しくなってきたんだけど、まだ、個人個人でそれを打開しようと思えば方法はある。「すべてが信じられない」わけではない。「すべてが信じられると思うわけにはいかない」だけで、「信じることができないもの(誤情報・ニセ情報と思われるもの)」をふるいにかけて取り去ることは、個人個人でできるのだ。


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2017年05月02日

映画The Journeyの予告編と背景: イアン・ペイズリーとマーティン・マクギネスの「旅路」を描いたコメディ(!)

映画The Journeyの予告編が公開されていた。センチメンタルな味付けがなされた全編真顔のコメディであることは、よい感じでわかりづらく明らかだ。出てくるのは英国首相トニー・ブレア、MI5で部下をつかねて事態をまとめる指揮官、車の運転手、そして「DUPの党首、ドクター・イアン・ペイズリー」と「IRAのマーティン・マクギネス」



予告編には、"Based on actual events" と出てくるが、この映画で描写されているようなことは実際には起きていない。いわゆる「事実に基づいた映画」ではなく、「事実(実際の出来事)から、作家が想像力を膨らませて作り出したフィクション」である。

舞台は2006年10月のスコットランド、セント・アンドルーズ。北アイルランド自治議会(議事堂のある場所の名をとり、「ストーモント」と呼ばれる)は2002年の「ストーモントゲイト」(IRAのスパイが議会に入り込んで情報収集を行っているとして議会が停止された。しかし2005年に「スパイ」たちへの起訴が取り下げられ、そのような事実があるのかどうかさえわからなくなった)で停止され、英国(ウエストミンスター)の直轄統治 (direct rule) が行われていた。「ストーモントゲイト」後の2003年に行われた自治議会選挙では、それまで(つまり停止された議会において)ユニオニストの第一党だったUUPが第一党の座から転落し、1998年の和平合意(グッドフライデー合意、GFA)に反対してきた「過激派 hardliners」のDUPが取って代わった。ナショナリストの側でも、「IRAの政治部門」であるシン・フェイン(SF)が、それまで第一党だったGFAを主導したSDLPをしのぐ議席数を得た。「IRAによるスパイ活動」で停止した自治議会を何とか再起動させなければならないのに、「有権者の意思」に任せたら「30年以上、反IRAの急先鋒であり続けている人物の党」と「IRAの政治部門」がトップに来るという結果になってしまい、当時まだ全然不安定だった「北アイルランド和平」に携わる人々、誰もが頭を抱えた。そのまま、交渉 (talk) への努力は続けられたが、DUPとSFではそもそも話 (talk) になるはずもなく、全てが難航した。2005年7月下旬には、IRAが武装活動の停止を宣言したが(結局のところ、最大の妨げとなっていたのは「IRAがまだ存続しているのに」ということだった)、それではユニオニスト強硬派にとっては全然足らなかった。ユニオニストにとっては「IRAが消えてなくなること」こそが必要だった(まあ、どうなれば「IRAが消えてなくなった」と認められうるのかがわからないのだが……今もまたIRAと関係がないはずのSFの政治家が、IRAの死者を追悼する行事でスピーチを行って炎上中だ)。

GFAで設置されたストーモントの議会(アセンブリー)は、一般的な議会の「与党と野党」というシステムではなく、各政党の獲得議席数に応じて閣僚を割り振る「パワー・シェアリング(権力・権限の分譲)」のシステムで自治政府(北アイルランドではExectiveと呼ばれる)を構成する。「多数派」であるユニオニストが権力を独占してナショナリストを虐げてきたかつての議会(パーラメント)と自治政府による政治が武力紛争を引き起こしたので、これからはそういうふうにならないようにしようということで設計された制度だ。しかしDUPは、「IRAと権力分譲をするなどありえない」というスタンスを貫いてきた政党で、それが2003年の選挙では有権者の最大の支持を集めた。ストーモントの再起動ったって、根本的に矛盾している。

そして「北アイルランド和平」の当事者たち(北アイルランドの諸政党、英国政府、アイルランド共和国政府、米国政府を含む国際社会)による「合意の形成」へ向けた交渉は、熾烈を極めた。

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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