kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年03月17日

聖パトリックの日に、緑色ではない一角に接した。

時バエは矢を好む。もとい、光陰矢の如し。米大統領選の結果を見て「おーまいがー、来年はどうなってしまうのか」と言っていたのはつい最近のことのように思えるのに、その「来年」はもう3月の半分以上が過ぎ、今日は聖パトリックの日になってしまった。3月17日である。

聖パトリックの日といえば、東京でもだいたいいつも、風が春めいてきたなあなどと感じるころだが、今年は寒い。自転車に乗って横断歩道で停車中に、マスク越しに鼻まで届く沈丁花の芳香が乗ってくる風も冷たく、午後3時をすぎて日が傾きだしたあとは、昼間はぐるっと巻いていただけのマフラーを、ぐる、ぐると重ねて巻くことになる。

そういえば今日は金曜日で、ということはセント・パトリックス・デーが祝日となっているアイルランドの人々は3連休で、今日どんなに飲んでも二日酔いで仕事にならないなどという心配をする必要がない人も多く、Twitterを見てるだけで酒臭くなるレベルで酒臭いことになるだろう。そういえば水曜日くらいから、BBC Northern Irelandのサイトでは、例年3月17日は酔っ払いでひどいことになるベルファストの学生街が、今年は輪をかけてものすごいことになるのではないかという記事が出てたと思う。

というわけで、まあセント・パトリックス・デイだし、成分補給してくれそうなトラッド系の音楽でも聞くか、なるべくバラエティ豊かな方がいいから、コンピレーション盤を探してみよう……とやってみたら、多すぎて話にならない(笑)。みんな、アイリッシュ大好きだな!

……とか何とかやってるうちに、パディ・ライリーの曲が入った「麗しのベルファスト」というこんぴ盤がリストに出てきた。ダブリン出身で、サッカーのアイルランド共和国代表サポをはじめ、アイルランド共和国のスポーツの試合で観客がよく歌うThe Fields of Athenryとフォークソングの最も有名な歌い手で、ダブリナーズでの活動でも知られるパディ・ライリーの曲が、「ダブリン」や「南(アイルランド共和国)」とはちょっと距離感のあるベルファストをストレートに讃えるコンピレーションに入っているのは、珍しいんじゃないかと思った。

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posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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