kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年03月07日

アイルランド、テュアムで埋められていた子供たちは新たに見つかったんじゃない。約3年前の指摘を政府がようやく事実と認めたのだ。

2014年6月、私は何に関心を持っていただろう。イスイス団の西洋に対する残虐な敵意の垂れ流し祭りが始まる2ヶ月前で、自分の関心の非常に大きな部分がイスイス団に向けられたあとのことは覚えているが、その前のことは思い出せなくなってしまった。Twitterのログを見返しても雑多すぎて、イマイチはっきりとしない。そのときに私が関心を向けていたことは確かにあるのだが、その後に起きたあまりにも大きな、あまりにも衝撃的なことに吹き飛ばされて、それらは自分の中で流れを作っておらず、ただ「断片」となり、確かに記録として存在はしていてもあとからたどることは難しくなってしまった。

それでも、2017年3月3日、北アイルランド自治議会選挙の開票実況をゲラゲラ笑いながらTwitterで追っていたときに(選挙についてのブログはこのあとで書きます。まだ笑えるから困る)、アイルランド共和国から流れてきたニュースに出てくるその地名には、聞き覚えがあった。ゴールウェイ州だよな、とも思った。決して馴染み深い地名ではないのに。

実際、2014年6月7日、自分は下記のようにTwitterに投稿していたのだ。

tuambabies-june2014.png


自分の書きぶりからわかるが、このとき、このニュースを伝えるセンセーショナルな文言を、非常に多く見たのだろう。そういう中で、何とか「冷静な」ものを見ようとしていたことがうかがえる(「正常性バイアス」ってやつだろう)。そして私はアイリッシュ・タイムズは(特に宗教がらみのことではアイリッシュ・インディペンデントなどに比べて)信頼できるメディアだと思っていたし(今でもそう思っている)、そこにあるバイアスに気づいていなかったのだろう。

そう、2014年6月の私のバイアスに、2017年3月の私は気づかされている。

さっきから、「何のことだ」と思われているかもしれない。このことだ。

アイルランド、カトリック教会が運営していた児童施設の跡地から、大量の子供の遺体が見つかった。
https://matome.naver.jp/odai/2148855831728187001

2017年3月3日、北アイルランドのリストの画面と、ベルファスト・テレグラフやBBC Northern Irelandの開票速報の画面を開いて、ウィキペディアの選挙区ごとのページを見て前回の選挙のことなども確認しながら、北アイルランドの人々の「うはー」とか「うひょう」という声が響く中、単なる数字を見てゲラゲラ笑っていたときに、北アイルランドのリストに "Tuam" という地名を含むツイートがいくつも流れてきていた。

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posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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