kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年02月02日

カナダ、ケベックのモスク銃撃事件(白人優越主義者によるテロ)と、ネット上のデマ、そしてFox News

1月29日(日)の夜(現地時間)、カナダのケベックにあるモスクが、銃を持った男に襲撃され、6人も撃ち殺された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Quebec_City_mosque_shooting

この衝撃的で陰惨なテロ攻撃(カナダのトゥルードー首相は、「テロ」と言うべき場面で「テロ」という言葉を使える人物であることを世界に示した)が、日本語圏のメディアでどのくらい報道されていたかは私は把握していないが(たまたまタイミング的に、Yahoo! のトップページも見ていなかった)、英語圏でも、私の見た範囲ではさほど大きな報道には見えなかった(カナダの報道機関のサイトを見ていれば、もちろん違っていただろう)。その理由は、1月20日以降、毎日毎日キテレツな出し物が上演されるかのごとくの米ホワイトハウスが連日、報道機関のサイトの一番いいところを占有し続けているからだ(そういう状態の中でほとんど気づかれずに流れていったニュースはいろいろあるだろう。英ウォッチャーにとってはなつかしの、"bury the bad news" 的な状況が、もう2週間近く継続している)。この日は、前日から続いて、批判的な人々と多くの主流メディア(英デイリー・テレグラフなど「保守」系を含む)によって "Muslim ban" と称された「イスラム圏の特定7カ国」に関する米国への入国禁止措置(査証発給停止)がトップニュースだった(妥当なことだ)。

日本時間で1月30日(月)の18時ごろに見たときのガーディアンのトップページ(インターナショナル版)。クリックで原寸表示。

guardian30jan2017s-min.png


ケベックはフランス語圏で、北アフリカなどフランス語圏からの難民・政治亡命者が多く暮らしている。襲撃されたモスク(英語で「ケベック・シティ・モスク」)はそういった人々が通う礼拝の場だ。そこが襲われたのは、日曜日の夜の礼拝の時間だった。ホワイト・ナショナリズムを信奉し(つまり北米の文脈では「白人優越主義者」である)、「反イスラム」の理念を抱く27歳の大学生による無差別的な銃乱射によって命を奪われたのは、39歳から60歳の男性たちで、大学の農学部の教授、食料品店の店主、薬剤師、ケベック行政府職員。それぞれに子供たちがいて、6人全員がカナダ国籍を持ち、2人はギニア共和国との二重国籍、ほか、モロッコやアルジェリアとの二重国籍の人々だった(ソース)。


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posted by nofrills at 07:45 | TrackBack(1) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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